Aymar du Chatenet, La Grande histoire du Petit Nicolas Les Archives inédites de Goscinny et Sempé, IMAV éditions, 2022, p.154-155.
« Goscinny et Sempé assistaient au mariage », Sud-Ouest dimanche, 8 mai 1960.
「華燭の典」その三
相変わらず,1960年5月6日,イギリスはウェストミンスター寺院で行われたマーガレットとアームストロングの結婚式のルポです.『シュッド・ウェスト・ディマンシュ』誌の1960年5月8日号に掲載された『プチ・ニコラ』番外編の一編です.
前回までのあらすじ
ゴシニとサンペが結婚式のルポを書くことになった.二人の英国現地に赴き・・・との野望は潰え,テレビで鑑賞することになった.当日,騒々しいサンペ一家がゴシニの瀟洒なアパルトマンに侵略してきた.ゴシニの憂鬱な1日が始まる・・・あらすじといっても,未だ結婚式は始まっていません.それなのに,ルポ全体の1/6ほどに達しています.世紀のイベントはいつ始まるのでしょうか.
Ça commence
L'installation devant le poste de télévision ne se fit pas sans mal. Mes deux fauteuils furent occupés par Sempé et sa femme, Nicolas exigeant d'abord se trouver debout devant l'écran pour mieux voir. Puis, s'étant vu menacé d'être privé de mariage, il voulut placer les chaises et les fauteuils comme au cinéma et vendre des esquimaux. Mme Sempé accepta de placer les chaises comme le voulait Nicolas ; elle lui dit que, pour les esquimaux, on verrait plus tard.
Comme au cinéma, j'eus une place au dernier rang de côté.
« C'est comme au... » commençai-je à dire.
« Chut ! » me répondit-on, toujours comme au cinéma.
Sur le petit écran, l'étrange escargot qui sert de montre à la R.T.F. indiquait 10h. 45.
« Je m'ennuie », dit Nicolas.
« Ça commence bien », murmurai-je.
On n'eut pas à me refaire « Chut ! », car nous étions aussitôt pris par le spectacle des cavaliers au casque empanaché se dirigeant vers Clarence House où se trouvait la princesse Margaret.
« C'est des cow-boys ? » demanda Nicolas.
« Chut ! » fis-je.
« Chut ! » me fit-on.
« Comment veux-tu que je dessine ce reportage si tu ne me laisses pas entendre ? » protesta Sempé.
La foule britannique se mit à agiter des petits drapeaux, aussitôt imitée par Nicolas qui secoua à bout de bras un mouchoir, un de ces mouchoirs comme seuls peuvent en avoir les gosses.
L'étonnant jeu des caméras rendit vraie l'affirmation de Jacques Sallebert, commentateur de la cérémonie, qui nous assura que nous verrions le spectacle mieux que si nous y étions.
« Ce n'est tout de même pas la Télé qui permettra d'acheter une veste en tweed », dit Sempé, amer.
4人がテレビの前に陣取り,いよいよ結婚式が始まる模様です.のはずですが,陣取るだけでも一直線に進まないのが,彼らの流儀のようです.
「テレビの受像機の前で席を決めるのにも一苦労だ.二つある私の肘掛け椅子は,サンペとサンペ夫人に占拠されてしまった.ニコラはよく見えるからと,テレビの前で仁王立ち.そんなことしたら結婚式はおあずけだと脅されて,しぶしぶ,じゃあ椅子と肘掛け椅子を映画館のように並べよう,それで棒アイスを売るんだと主張した.仕方ないわねとサンペ夫人.結局ニコラの主張が通って並べ替え,棒アイスはまた後でね.それで映画館のように,私には最後尾の端っこの席が与えられた.
私が「映画館の・・・」と言いかけて,「シッ!」と制されたのも映画館のよう.
小さな画面上には,時刻を知らせるRTF社の変なカタツムリが10時45分を指している.」(p. 155)
『プチ・ニコラ』では肘掛け椅子はパパの安楽の夢の象徴.1日の疲れを癒そうと,どっしり座って新聞でもと思うと,必ず邪魔が入るのでした.
『プチ・ニコラ』(90),『プチ・ニコラ』(94),『プチ・ニコラ』(131)などなど多数の例があります.
別に,お話の中で肘掛け椅子とパパの関係がそんなふうに面白おかしく描かれるからといって,現実のゴシニの生活空間がそうだったということにはちっともなりません.が,ゴシニが肘掛け椅子に安らぎを見出していたかも,くらいの想像は許されるでしょう.ゴシニのアパルトマンには肘掛け椅子が二つあったようです.ちょうどニコラの家の居間にも二つ.数は合います.肘掛け椅子に安楽を見出していたのは,ゴシニだけとは限らない証拠に(フランス人一般まで拡大していいのかどうか?),サンペと夫人は,家のご主人になんら断ることなく,椅子を「占拠」してしまいます.前回の最後に,ゴシニはサンペ一家の来週を「侵略」(envahir)という言葉で表現していました.今,ゴシニの中では,間違いなく戦争状態です.敵襲で土地が占領されてしまうように,椅子が「占拠」(occupé)されてしまうのです.そして住人の意思に関わりなく,椅子の配置が決められてしまいます.原文で「仕方ないわねとサンペ夫人」の部分は,「サンペ夫人はニコラの思うように椅子を並べるのを了承した」ですから,元々の住人に決定権はありません.おまけに侵略者は「棒アイス」の販売権まで所有しているようです.ちなみに「棒アイス」はesquimau(x).チョコレートでコーティングした棒状のアイスクリームで,フランスのジェルべ(Gervais)社の登録商標だそうです.アメリカで発明され,フランスでも発売されていた商品の販売会社を1931年にフランスのジェルヴェ社が買収して一つになったなんてトリビアは今回知りました.
*写真は上のWikiさんから拝借しました.
もう一つトリビアで,フランス語でvendre de la grace à un esquimau「エスキモーに氷を売る」という慣用句は,「非常に優れた販売能力や説得力を持つ」という意味だそうです.検索かけたら「AIによる概要」さんが教えてくれました.要するに,相手を言いくるめて,何でも売りつけてしまうってことでしょう,たぶん.せっかくなので覚えておきたいとおもいます.
お話に戻ると,かつてゴシニがサンペの家では言いかけた言葉も最後まで言わせてもらえない,途中で話が切られてしまうと嘆いていたことがありました.
サンペの家でなくても,サンペ一家がいるところならどこでも同じなようです.「映画館のように」椅子が並べられ,「映画館」でゴシニは,いつも端っこに座る羽目になってしまう気弱な人のようですが(ただ単についていないだけ?),それを「映画館のように」と言いかけて,やはり中断されてしまいます.「シッ!」ゴシニの観察は正確です.やっぱり映画館のようでした.
R.T.F.はRadio Télévision Française,「フランス国営放送」の略号です.カタツムリのような形をした時計表示が存在した,という理解で良いのでしょうか.その時計で10時45分.いまか今かと式の始まりを待つ視聴者の胸は高鳴り・・・かと思いきや,KYニコラは「つまんない.」全然興奮なんてしていません.それに対して,ゴシニは「あ〜あ,始まったな」と呟いています.この表現,文字通りには「幸先良い,良い形で始まった」(ça commence bien)となり,文脈によっては「いい始まりだぞ,始まりは好調だ」などと訳せるのでしょうが,ここではもちろん皮肉.いきなり「つまんない」では,この先思いやられるな,という諦めの気持ちを「呟いた」のでした.確かに,こんな癖のある一家と一緒に見ていて何も起こらないとは思えませんからね.
この表現が面白いのは,もう一つ,この箇所の冒頭,太字部分にあるように,「〔式がいよいよ〕さぁ,始まるぞ!,いよいよ式の始まり!」という表現と共鳴しているからです.ゴシニのアパルトマンでは,確かに「式がいよいよ始まる」のですが,ゴシニにしてみれば「あ〜あ,始まっちゃったよ(これじゃ落ち着いて式なんて見ていられないんだろうなぁ)」という悪い予感でしかありません.同じ言葉や表現でも,文脈が変われば意味が正反対というほど変わってしまう.ゴシニはそんな操作の名人です.『プチ・ニコラ』(90)に一例が見られます.« souvenirs doux et frais »が話者によってくるりと意味を変えてしまっているのです.
ところで,今度は「シッ!」と発言を中断されることはありませんでした.ゴシニは「呟いた」だけだから,と思いきや,そうではなくて,テレビの画面にいよいよマーガレットが乗る馬車が登場したおかげでした.それを見たニコラが,「これってカウボーイ?」と質問するので,ゴシニが今大事なところなんだから黙れっとばかりに「シッ!」というと,周りからはやっぱり「シッ!」.サンペに至っては,息子を注意するどころか,ゴシニにくってかかります.「お前に邪魔されて聞こえなかったら,どうやってルポにイラストつけることができんだよ!」怖いこわい.
四人は食い入るように画面を見ています.英国の群衆が手に持った旗を振り,それを見たニコラが「ガキだけが持っているようなハンカチを持ち」,腕を伸ばし真似して振る.テレビではコメンテーターのジャック・サルベールが「テレビをご覧のみなさまには,現地でよりずっとよく見えておいででしょうと言っている.確かに中継カメラの巧みな操作で,それはその通りと思わせてくれた.」だったら,現地に行かなくてよかったな,とゴシニは思ったかもしれませんが,サンペの落胆は慰められなかったようです.
「そうはいっても,テレビじゃ,ツイードのジャケットは買えんしな.」サンペが毒づいた(同上).
(つづく)
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