Aymar du Chatenet, La Grande histoire du Petit Nicolas Les Archives inédites de Goscinny et Sempé, IMAV éditions, 2022, p.154-155.
« Goscinny et Sempé assistaient au mariage », Sud-Ouest dimanche, 8 mai 1960.
「華燭の典」その五
前回までのあらすじ
お話も後半に入ったところで,ようやく新郎・新婦が姿を現した.美しい花嫁にゴシニはうっとり,いつもの妄想モードに突入.でも,口の悪いサンペのツッコミで,長くは妄想させてもらえない.そうはいってもゴシニ自身,式よりも細部とかサイドとかのほうが気になってしまうようなのだ.
Une scène indescriptible
Dans Westminster Abbaye, tout le monde, à commencer par Antony Armstrong-Jones, nerveux, la reine mère souriante et la reine impassible, attend l'arrivée de la princesse Margaret.
Le début de la cérémonie est imminent. La camera nous montre le chœur dont les premiers rangs sont occupés par de jeunes garçons, dont la plupart portent des lunettes et des cheveux en bataille. Les enfants anglais semblent avoir des chevelures particulièrement résistantes au peigne et au cosmétique.
Toutes les têtes se tournent vers l'entrée de Westminster Abbaye. Les enfants, sur un signal, commencent à chanter. Malheureusement, les micros, mal placés, ne permettent pas d'entendre leurs voix avec la netteté voulue, et c'est bien dommage. C'est bien dommage, car Nicolas, se plaignant de ne pas entendre, se met à tourner les boutons du poste. Sa maman lui donne une tape sur la main. Nicolas se fâche et frappe de son petit poing vigoureux sur l'appareil. Bref, au moment où la princesse Margaret fait son entrée dans l'abbaye, nous entendons : « Pffft ! ».
L'image disparut. Nous perçûmes encore la voix d commentateur disant que le spectacle était indescriptible, et puis ce fut la fin. Plus d'image, plus de son, plus de reportage, plus rien hormis les pleurs de Nicolas qui voulait revoir Ivanhoe, et la voix de Sempé m'assurant qu'il allait arranger ça rapidement.
Je dois dire que Sempé fit de son mieux. Je n'ai pas réussi à l'en empêcher. Il retourna l'appareil, mit la main dedans, poussa un cri en ramassant une décharge terrible, fit sauter les plombs de l'étage, ce qui fit accourir mon voisin, celui qui laisse traîner son journal sur le paillasson.
Les Sempé, discrets, me quittèrent alors pour aller voir la suite de la cérémonie chez un de leurs amis qui n'habite pas loin et « qui a un poste qui marche, lui ».
Moi, je restai en conversation avec un voisin passablement irrité.
L'affaire se solda par quelques frais d'électricien et de tailleur, qui me dit que mon costume à fentes était irréparable, comme mon poste de télévision d'ailleurs, et qui me força à acheter un autre costume. Je m'en souviendrai !
Mais, que voulez-vous, ce fut un beau mariage, et la vie d'un reporteur envoyé spéciale est pleine de déboires et d'imprévus. C'est ce qui fait la beauté de ce métier aventueux !(fin)
「言葉にできない情景」
さて,二人のルポもいよいよ大詰め.本ブログの番外編の紹介も大詰め.締めくくりは如何に?とはいえ,この項目の題名「言葉にできない情景」は,状況と合わせて,なんとなく想像がつくような.まずテレビを用いたルポでしょう,それを言葉とイラストで描くわけでしょう?題名の「言葉にできない」は文字通りには,in-descript-ible,つまり「描写することが不可能な」ですから,場面描写ができない状況に陥るというオチでしょう.これがゴシニとサンペのような捻くれ者たちのルポでなければ,「筆舌に尽くしがたい,描写しようとしてもできないくらい素晴らしい情景」とは,どのような状況かワクワクするところですが,この二人ですから,「書けない=言葉にできない」状況に違いない,とこちらも警戒しているのです.例えば,テレビが壊れて映像が見えない,つまり「情景が描写できない,されない」状況とか.
ウェストミンスター寺院では,緊張でピリピリしたアンソニー・アームストロング−ジョーンズ,笑みを絶やさない王太后,無関心の女王をはじめとした,そこにいる全員がマーガレット王女の到着を待っています.
「もうすぐ式が始まる.カメラは視聴者にコーラス隊を映し出す.最前列を占めるのは少年たちだ.大方眼鏡をかけ,髪がぼさぼさである.イギリスの子どもというものは,とりわけブラシやポマードに負けないほど長く豊かな髪の持ち主なのだろう.」(p. 155)
やはり王室や式典とは別のものに目が行くようです.とりわけ,『プチ・ニコラ』の作者なら「子ども」を観察するのもうべなるかな.
そうなのですが,ここではどういうわけか,戦争のイメージが浮き上がってしまいます.まず,「もうすぐ式が始まる」(« Le début de la cérémonie est imminent. »)は,そのまま訳せば,「式の始まりは差し迫っている」となります.imminentが「危険」などとともに用いられる語で,緊迫感を醸し出しています.「カメラ」=「銃」というのは,ちょっと深読みのしすぎでしょうが(「ガンカメラ」と言うものがあるとか,カメラで写すことを「撃つ」というとか,まぁいろいろ言えますが),コーラスの最前列は少年たちで「占められて」います.お話の冒頭で,ゴシニのアパルトマンをサンペ一家が「侵略」し,椅子が「占拠」(occupé)されてしまった時と同じ語です.それに少年たちの髪の毛は「ぼさぼさ」(en bataille)でした.これは乱雑さを表すと同時に,「戦闘隊形にある」状態を指します.そんな子どもたちは「ブラシやポマードに負けないほど」の髪の持ち主であると言われていますが,「負けない」すなわち「抵抗する」(résistant)ほどクセのある髪をしているのです.これからイギリスの子どもたちに戦いをさせようとするのではまったくありませんが,少なくとも差し迫った緊迫感を感じさせるような語彙が集められているのです.
そしていよいよ式典がはじまります.参列者の目が一斉にウェストミンスター寺院の入り口の方へ向けらあれます.合図があり,子どもたちは歌を歌い始めました.ところが!です.
「不幸なことに,マイクを置いた場所が悪いらしい,子どもたちの声をはっきり聞き取ることができない.まことに残念だ.まことにまことに残念でならない,なぜならニコラがよく聞こえないや,とブツクサ言うが早いか,テレビのボタンを回し始めたからだ.それでサンペ夫人がニコラの手をピシャリ.怒ったニコラが小さな握り拳でテレビに強烈な一撃を喰らわせた.とどのつまり,マーガレット王女が寺院に入場してきたところで,『プツン!』という音が聞こえた.」(同上)
ここら辺,展開が早いです.歌が始まる→マイクのせいで歌が聞こえない→ニコラ,苛立つ→テレビをいじる→サンペ夫人の介入→ニコラの一撃→「プツン!」.「とどのつまり」,花嫁の姿は見えなかったようです.そして続く式典もまた・・・.
「映像は途絶えたが,コメンテーターの声だけはまだ聞こえている.曰く,『言葉にできない情景です』.それで万事休す.もう映像もない.音もない,ルポもない,何もない.ただただ,アイヴァンホーがもう一度見たいよーとニコラが泣き叫び,すぐになんとかするからとサンペが私に請け合う声が鳴り響くのみ.」(同上)
あ〜,やっぱり何か起きると思ったんです.「言葉にできない情景」を巡る何かが.もちろんここでは,式の素晴らしさを形容した「言葉にできない情景」と,テレビが壊れ映像も言葉も流れてこない,つまり「言葉にできない情景」が掛けられています.もしかしたら,メインの場面でテレビと映像を失ったゴシニの「言葉にならない」,絶句の状況も重ね合わされているでしょうか.言葉にならないからこそ,「もうルポもない」.これも,式典を伝えるルポルタージュと,テレビでルポ(報道)を見ながらルポを書こうとしているゴシニらのルポの二つがやはり掛けられています.対象が消え失せてしまったのに,ルポもなにもあったもんじゃない・・・.そんな絶望的な状況下で,それでもニコラの泣き声と,詫びるでもなくそれでも一応すまなさそうにゴシニを宥めるサンペの声だけが響いているのです.虚しく・・・.
それでもサンペは精一杯全力を尽くしたそうです.ゴシニもそれは認めています.でも,「私はそうしてくれているさんぺを止めることができなかった」という表現から,もっと悪い事態,つまりサンペがテレビを修復不能にしてしまうことが,そこはかとなく伝わってきます.
「サンペはテレビをひっくり返し,中に手を突っ込んだ.バリバリッと電気の流れた音がしたと思うと,サンペは悲鳴をあげた.この階のヒューズを飛ばしてしまったのだ.例の私の隣人が駆けつけてきた.自分のところに配達された新聞を玄関マットの上にほったらかしていたあの隣人である.」(同上)
やってしまった・・・.ルポの再開どころか,ヒューズまで吹っ飛ばし,今朝から不穏な空気の流れていた隣人にまで飛び火してしまいました.いくら誤解とはいえ,①新聞をめぐり一悶着,②永遠に続く呼び鈴で風呂から引っ張り出された,③ヒューズのおかげで電気が使えなくなったとなれば,もうゴシニさん,テレビどころか関係まで修復不可能では?
「サンペ一家はさりげなく我が家をあとにし,式典の続きを見に行くからと言い残して,友人宅へと移動した.ここから遠くないし,『やつのとこなら,ちゃんとしたテレビがあるからな』.」(同上)
ゴシニ,茫然自失.あいた口が塞がらなかったことでしょう.ところでこの部分の冒頭,「サンペ一家はさりげなく」と訳したところですが,原文は« Les Sempé, discrets, »なので,そのまま訳すと「慎み深い(控えめな)サンペ一家は」と文全体の主語になります.しかし「サンペ一家」が「慎み深」くも控えめでもないのは,「やつのとこなら,ちゃんとしたテレビがあるからな」という捨て台詞から明らかでしょう.ですから,きっと何がしかの罪悪感と後ろめたさは感じているはずで,それが「地味な,控えめな,慎み深い」という形容詞の意味するところなのです.ですから,地味に「そうっと,こっそりと」出ていったことが想像できます.なぜ「そうっと」かというと,ゴシニは怒鳴り込んできた「隣人」さんと口論していたからです.サンペ一家の失礼な暴言に反応することもできないほど,対応に追われていたわけです.「私はというと,かなりイラだっていた隣人と話をしていた」(同上).「話をしていた」声というより,怒鳴り声が聞こえてくるようです.
次の段落の冒頭も意味深です.
「この件は,電気屋と仕立て屋にいくらか払って一件落着となった.仕立て屋曰く,「あなたのベンツ入りのスーツはもう修復できませんや」.テレビの受像機と運命はおなじ.それで,無理やりもう一着買わせたのだ.覚えてろよ!」(同上)
テレビが(サンペによって)壊されたのはわかりますが,「ベンツ入りのスーツ」は唐突なような気がします.なぜもう一着買うはめになったのか,つらつら考えるに,隣人との口論がヒントになっているのでしょう.つまり掴み合いの喧嘩をして破られてしまったのかと.ちょっと大袈裟でにわかには信じがたい,というよりそんなことなかったとは思いますが,テレビが修復不可能なのと呼応しているのです.やっぱりほんとうか嘘か,本当に破れたのか,話を盛っているのか,読者には判断できません.でも,ここでもやはり,言葉による話の効果が重要なのです.
そして最後の捨て台詞「覚えてろよ!」は,ニコラのパパを彷彿とさせます.例えば『プチ・ニコラ』(212)の復活祭のエピソード.同じ表現ですね.よほど悔しいのでしょう.
「とはいえ,どうしようもない.素晴らしい結婚式だったじゃないか.ルポの特派員の人生に挫折と不慮の事故はつきものだ.だからこそ,この冒険に満ちた職業は素晴らしい.」(同上)
「素晴らしい結婚式」ったって,見てないじゃないか!と突っ込みたくなりますが,まぁ,無理やり締めくくりました.でもゴシニのアパルトマンにも今日一日,「挫折と不慮の事故」がたんとありました.それを「ルポ」しているのですから,「ルポの特派員」,文字通りには「特別派遣のリポーター」の人生を語る材料は十分にあったわけです.そもそも,「特別派遣のリポーター(ルポをする人)」といったって,イギリスに派遣された,と書いているわけではありません.式を報道するようにと特別に任命をうけたゴシニたちだって,間違いなく「ルポをする人=リポーター」だったのです.
想えば,この番外編の次の「家電市」をめぐるルポと合わせて,『大全』の著者は「ルポは冒険」(« aventures journalistiques »)と呼んでいました.おそらくはこの最後の部分を念頭においてそう呼んだのでしょう.ゴシニとサンペがどの程度「報道,ルポ」(journal, reportage)に興味を抱いていたかは知りようもありませんが,これら2話が面白おかしく,しかも守備一貫したルポになっているのは確かです.一方でルポというと事実の報道,他方で『プチ・ニコラ』というと創作のお話と分けて考えるのは当然と言えば当然なのですが,それがほんとうのこと/うそ(作り話)という枠組みで分けられないのも,おそらくは認めざるを得ないでしょう.どこまでがほんとでどこからが作り話?なんて問いを立てたら,ゴシニ/サンペの創作(書きもの・描きもの)は楽しめないのです.イラストだって,現場を伝えながら,現場そのものであるはずもないのですから.



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