« la princesse et le photgraphe »(le 8 mai 1960)(la fin)
すでに5回目.もう終わりにしましょう.
というわけで,前回はニコラの高らかな「アイヴァンホー」の歌声を注意しようとして,自分の家から逆に追い出されかけたゴシニでした.
いよいよ「写真家」アンソニー・アームストロング-ジョーンズ登場.ここでワイワイガヤガヤとなりかけたところで,ニコラが外に出たがり中断.トニーさんも敢えなく退場.
エリザベス女王,皇太后・・・と,ロイヤル・ファミリーが登場して,いよいよ「王女」のお出ましとなります.
「王女のお出ましだ!」と,イギリス人たちが歓声を上げる.
「新婦のご登場よ!」と,サンペ夫人も歓声を上げる.英語を知らない彼女だが,たった今すぐ翻訳することを学んだとしたら,たいへんな驚きである.(p.80)
相変わらずゴシニの皮肉というか,観察の視点がかなり他の人とは異なるようです.さらに王女の美しさに打たれたゴシニは夢想を始めます.「フィリップ殿下にかわって,わたしが彼女の横に座る」などという・・・.すると,それを見透かしたようにサンペが「粗野な笑い声」とともに,ツッコミを入れました.
「愉快な話だぞ,ぼくはいま,きみが王女とあの走っているガラスビンの中に座っていればおかしいだろうなと考えていたんだよ.背中にツーベンツのスーツなんて,きみにはまるでお似合いじゃないからね!」(p.81)
はっきり言って,余計なお世話です.同じ内容の夢想なのに,片方は幸せな結婚を夢見,もう片方は似合わないスーツを当てはめて,お笑いのネタにしているのです.それにしても,ツーベンツのスーツって,そんなにおかしいんですかね?*
*ベントとはスーツの背中の切れ込みのことだそうです.ツーベンツは,だから,ベントが2本入っているということでしょう.サイドベンツ,センターベント,ノーベントと分かれるようですから,それぞれにおしゃれなはずなんですが,ゴシニが自慢げに着込んでも,口の悪いサンペには滑稽に見えてしまうということでしょうか.それほどいうなら,サンペの趣味は?って知りたくなります.
このお話には幾つかの小見出しがついているのですが,その最後は「表現できない情景」(une scène indescriptible).「表現できない」indescriptibleという語はdécrire, description,つまり,「描写する」,「描写,記述」から派生していますから,日本語で文字通りには「筆舌に尽くし難い」(舌は余計ですが).でも,書こうとするから次のお話があるわけです.なんだか矛盾していますが.それで見出しの横には,イラスト4/4が置かれています.
テレビの調子が良くないみたいで,ニコラの指導の下?ゴシニとサンペが調節し,サンペ夫人が画面を眺めながら修理を待っています.画面上には蜘蛛の巣のような映像が.これでは,まさに「描写できません」.いったい全体,どうしたわけで?
ウエストミンスター寺院が写り,みんなが王女の登場を待っています.典礼の最前列には少年の合唱団が並んでいます.その子どもたちの描写にも,ゴシニは遠慮なくユーモアと皮肉を投げかけています.しかし合唱団が歌い始めたその瞬間,マイクの設置場所が悪かったために,歌が聞こえず,それに苛立ったニコラが暴挙に出ます.
聞こえないことにいら立ったニコラが,テレビのボタンを回しはじめた体.彼のママは,彼の手をピシャリと打つ.すると,ニコラは,腹を立て,小さいが力強い拳でテレビを叩く.とどのつまり,マーガレット王女がウエストミンスター寺院に入ろうとするその瞬間に,わたしたちは《プツン》という音を耳にする.(p.84)
イラストはまさにこの直後の場面でしょう.
画面が消えた.それでも,この光景は言葉では表せないと言っているコメンテーターの声が聞き取れた.しかし,それで終わった.もはや画像も,音声も,ルポルタージュもない.ただ《アイヴァンホー》をもう一度みたいと言うニコラの泣き声以外にはなにもない.(p.85)
まさに「終わった」のです.「言葉では表せない」と言う言葉とともに,言葉も映像も,全てがやはり表せないと言わんばかりに消え失せてしまいました.残るはニコラの泣き顔と,響き渡る泣き声のみ.「終わった.」・・・
サンぺが「すぐに直す」と修理を買って出て,ゴシニ曰く「最善を尽くした」には違いなくとも,それでもやっぱり「表現できない」光景だったのです.
彼〔サンペ〕はテレビをひっくり返し,中に手を入れ,ものすごいショートを起こして悲鳴を上げた.彼は,この階のヒューズをふっ飛ばしてしまった.それでわたしの隣人が駆けつけてきた.(p.85)
テレビをひっくり返したのはサンペなのですが,そのサンペが描いたイラストでは,テレビはひっくり返っていません.相変わらずのニアミスといったところでしょうか.でもそんな小さなことにこだわるサンペではありません.文には修理の指揮をとるニコラの描写もありませんが,やっぱりあったほうがこの場面は断然面白い.読者は,お前のせいなんだよ!とツッコミたくなりますから.
朝から隣人と緊張関係にあったゴシニは,これでいよいよ窮地に.それにしても,隣人さん,すぐに駆けつけてきたところを見ると,ゴシニの家では近所迷惑になるレベルの声で,大騒ぎしていたんでしょうね.だって,アパルトマンなら,どこの家が原因で停電したなんてすぐにわからないはずなのに,一直線にゴシニのところに乗り込んできたのですから.
「慎み深いサンペご一同」は,「ちゃんと映るテレビを持っている」友人のところに,テレビを見にいってしまいました.残されたのはゴシニと「相当頭にきている」隣人ばかり.でも,こんなに嫌味と皮肉を撒き散らしながら,怒ったり怒鳴ったりしていないゴシニは素敵です.
電気屋はテレビが修理不能だと言い,仕立屋は,わたしのツーベンツのスーツが繕いきれないと言った.のみならず,仕立屋はわたしに新しいスーツを買うように強いたのである.(p.86)
踏んだり蹴ったりとはこのこと.それで,ゴシニは当然の如くキレるのですが,それが身勝手な友人一家に向かわないところがすごい.
「くそ,いまに見ていろ,覚えていろよ!」(p.86)
誰に言った独り言でしょうか.フランス語で読んでいないので,なんとも言えませんが,おそらくこの罵りは,例えば(212)でのパパによるやる場のない怒りの表現と同じようです.
最後にゴシニは,「特別派遣のリポーター」(ルポルタージュを書く人)の「生涯」は,「予想外の出来事と,どうしようもない不運に満ちている」,との観察で話を締めくくります.「予想外の出来事」とは,王女と写真家の,身分違いの結婚式のことでしょうか,それとも結婚式を見ようとして,ほとんど見れなかった1日の出来事を指すのでしょうか.そして「どうしようもない不運」とは,テレビの故障を指すのでしょうか,それとも,隣人との関係が悪化し,結婚式をほとんど見れず,お気に入りのスーツが台無しになったことなのでしょうか.
いずれにせよ,「この波乱に富んだ職業の崇高さ」は,出来事と不運からなる,そんな大切な教訓を含んだ,1日のルポルタージュだったと言う結論です.だから,ルポルタージュをしようとする人たちのルポルタージュ.結婚式が大切な歴史上の出来事だったとして,それを報告する記述も,パリの,もしくは庶民の大切な1日の出来事の記録に違いありません.
そこでは歴史的出来事が語られているというより,歴史的出来事を語ろうとする仕方が描かれているのです.ユーモアを取り混ぜ面白おかしく,私見ばかりで,皮肉でコミカルで,どこまでほんとうのことか分からなくたって,それは大切な1日の歴史記述と言えるのではないでしょうか.
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