Aymar du Chatenet, La Grande histoire du Petit Nicolas Les Archives inédites de Goscinny et Sempé, IMAV éditions, 2022, p.154-155.
« Goscinny et Sempé assistaient au mariage », Sud-Ouest dimanche, 8 mai 1960.
「華燭の典」その四
前回までのあらすじ
ゴシニは自宅のアパルトマンで,サンペ一家と結婚式のテレビ中継を見始めた.未だわずかにマーガレットが乗る馬車と,旗を振る聴衆が見えただけだ.コメンテーター曰く,現地でよりテレビで見る方がはるかによくわかる.確かにカメラワークが素晴らしい.でも,現地で物欲を満たせなかったサンペは納得していない.
Mais qu'est-ce qu'ils ont sur la tête ?
Nous voyons passer la reine mère dans une automobile. Nos regards sont accrochés par un monsieur assis à côté du chauffeur et coiffé d'un superbe haut-de forme. Si c'est un valet de pied, il est rudement bien habillé. Si c'est un membre de la famille royale, il n'est pas fier. Mais nous n'avons pas le temps d'épiloguer, car Nicolas demande à sortir et, nous, nous allons à Westminster Abbaye.
Westminster Abbaye présente un aspect inaccoutumé, surtout pour moi qui ne l'avais jamais vue auparavant. C'est plein de gens assis attendent le début d'une cérémonie qu'ils verront moins bien que nous, puisqu'ils y sont, eux. Il est difficile de savoir s'ils ont au moins profité de la situation pour se procurer des vestes de tweed, car tous les hommes ou presque sont en jaquette noire.
Sir Winston Churchill, assis au premier rang, est en gris. Il a l'air fatigué, assez indifférent. Quelqu'un lui frappe sur les épaules. Il tend une main sans tourner la tête, et c'est dommage, parce que, s'il l'avait fait, il aurat vu passer derrière lui le plus incongru des vieux boy-scouts en short et chemise à manches courtes.
On aperçoit Sir Antony Eden grossi, vieilli et souriant ; M. Attlee, simplement souriant, et Nicolas qui revient de sa petite promenade et qui reste en admiration devant l'écran, posant son doigt dessus et criant : « Mais qu'est-ce qu'ils ont sur la tête ? »
« Ils », ce sont ces étranges personnages qui gardent la tour de Londres et qui portent un uniforme d'un autre âge, lequel uniforme se termine par une coiffure qui est un compromis entre une soupière renversée et un gâteau au chocolat raté, que j'ai mangé une fois chez des amis chez qui je ne suis plus retourné, parce que, à mon avis, ils l'avaient fait exprès.
« Ailleurs qu'en Angleterre, assure Jacques Sallebert, ces uniformes seraient ridicules ».
Et c'est vrai. Il n'y a qu'à voir Nicolas. Il se roule par terre, pris d'une joie ironique et précoce. Précocité en plus, c'est tout son papa qui est en train de rire parce qu'il a aperçu, dans l'allée centrale de Westminster Abbaye, un monsieur chauve en kilt écossais.
« Il est aussi ridicule que toi avec ton nouveau costume, celui qui a des fentes dans le dos », me dit cet excellent ami entre deux hoquets. Les rires chez moi et les visages solennels sur l'écran forment un contraste hallucinant. Et il est très bien, mon costume.
エリザベス女王を乗せた自動車が通り過ぎます.でも,テレビの前の四人は目は,華麗なシルクハットを頭に乗せ,助手席に腰掛けている男性に釘付けになります.「お供の者とすると,身なりを整えた感がすさまじい.王家の一員なら威厳に欠ける.」「身なりを整えた感がすさまじい」(« il est rudement bien habillé. »)は「身なりを整えている,きちんとした服を着ている」(il est bien habillé)にrudement「荒々しく,手荒く」という意味の副詞を伴った表現です.「荒々しく」とはいっても,特に口語では程度が甚だしい様子にも用いられますから,「ものすごく良い格好をしている,身だしなみがきちんと整っている」と,肯定的な意味で取ることもできます.でも,この人物を見ている彼らの目は「釘付けに」(accroché)なっていますから,何か特徴があって目を奪われているのです.並の服装の良さではなくて,きっと良すぎて,その人物には似合わないのでしょう.そんなニュアンスがrudementには込められているようです.「威厳に欠ける」(n'être pas fier)も,「自慢できない,誇れない」という表現ですから,きっと王族なのに趣味が悪いというのを和らげて書いたものでしょう.それでテレビの前であれこれコメントを加えようとおもっていたのに,ニコラが外に出たいと騒ぎ出し,その間に画面はウェストミンスター寺院へ移っていったようです.
「ウェストミンスター寺院はいつにない様相を呈していた,特に今まで一度も見たことのない私にとっては.」すらっと読み飛ばしてしまいそうですが,一度も見たことがないのに,どうして「いつもと違う」(inaccoutumé)だと分かるんでしょうね?それはともかく,大勢の観衆が腰掛けて,式の始まりを見ていたようです.でも,現地で,しかも腰掛けて見ている人たちの視界は,テレビの視聴者よりも当然狭い.式全体を見ることなど叶わないはずです.ここでもしかしたらゴシニは,このようなイベントを見る際のテレビ鑑賞の優位を伝えているのかもしれません.臨場感は感じられず,ツイードのジャケットが手に入らなくても,テレビ・メディアは効率よくイベントを報道してくれるのです.そんな風によく見えなくても,それでも「この人たちはせめても地の利を生かして,ツイードのジャケットを買えたのかどうか.それを知るのは難題だ.その人たちは全員,あるいはほとんど全員が黒の上着を身につけていたからだ.」さて,ツイードのジャケットが欲しい人ばかりではないでしょうが,それにしても,折角安いイギリスにいるのだから,「地の利を生かして」買うことができたのかどうか,気になるところです.イギリス人も安く買えるなら,ですが.
チャーチル首相が最前列に座っています.疲れてそうですし,式なんて興味なさそう.来賓として挨拶もし疲れたのでしょう.誰かも確認せずに,機械的に握手をしているようです.ここでもゴシニの目は,正装をしたチャーチルではなく,その背後を通り過ぎた,「ショートパンツに半袖のシャツ,ボーイスカウトの身なりをした,場違い甚だしい老人」に向けられています.やはり以前に書いたとおり,パスカルの『パンセ』の一節を想い浮かべてしまいます(こちら).日本語で読んでいても,今回のようにフランス語で読んでいても,同じ場面に発想がゆくことは当然あるわけで.
「年老いてこってり太ったアンソニー・イーデン卿が笑顔を浮かべている.アトリー氏は太っておらずただ笑みを浮かべている.それにニコラが散歩から戻ってきた.」アンソニー・イーデン(Anthony Eden, 1897-1977),ことエイヴォン伯爵はチャーチルの後任として第64代イギリスの首相となった人物で,アトリー氏はクレメント・アトリー(Clement Attlee, 1883-1967)で,アトリー伯爵.第62代首相でした.この部分を原文で見ると,Sir Antony Eden grossi, vieilli et souriant ; M. Attlee, simplement souriantとなっています.非常にリズミカルな言い方で,二人を対比させているのです.その際の強調点は,前者は「太って,年老いて,笑みを浮かべている」,後者は「ただ笑みを浮かべているだけ」,つまり太っても年老いてもみえないというところでしょう.もう一つ面白いのが,主語はOn aperçoitですから,「〜が見えている」とされているところです.何が「見えている」のかといえば,画面上のこの二人と画面外の「ニコラ」なのです.やはり画面に集中しているわけには行かないということでしょう.
外から帰ってきたニコラは「画面の前でしきりに感心した様子で,画面に指をおいて,叫び」ます.「この人たち,頭に何を被っているの?」
「この人たち」とは,ロンドン塔にいる,時代錯誤な制服を身につけた,あの一風変わった警護の人たち」のことでした.「彼らの制服の上部末端には,逆さにしたスープ鉢と,出来損ないのチョコレートケーキを合わせて二で割ったような帽子がのっかっていた.」ひどい形容です.名誉毀損で訴えられないかしら?でもゴシニの夢想はさらに展開されます.「出来損ないのチョコレートケーキ」は「かつて一度だけ友人宅でごちそうになった」ケーキを想わせたようです.すでに「出来損ない」(raté)は文字通りには,「失敗作の」.もう言いたい放題です.しかも「その友人宅には二度と行っていない.なぜなら,私が思うに,その友人たちはわざとそんなケーキを拵えたのだから.」この辺,悪意があります.だって,「わざと」失敗作を作る人はいませんし,況やそれをわざわざ「友人」や招待客に出すこともないでしょう(普通なら).ですから,ゴシニは彼らの料理がマズイ,不味いものしか作れないといっているのも同然なのです.思わず笑ってしまう箇所ですが,かなり残酷な記述です.
「イギリス以外では,こうした制服は滑稽と思われるでしょう.」,とジャック・サルベールが請け合っていた(同上).
「確かに.」とゴシニは同意します.その証拠をというなら「ニコラを見るが良い.皮肉を込めた,年齢に相応しくない喜びを感じて,床を転げ回っているではないか.年齢不相応といえば,そのパパのほうがさらに上をいく.パパも笑い転げている.それはウェストミンスター寺院の中央通路にスコットランドのキルトを履いた禿げあがった男性を見つけたからだ.」(同上)
でも,数年前に亡くなったサンペは晩年の写真を見ても,「禿げた」男性を見て笑う「年齢不相応」(précocité=早熟さ)はなかったと思うのです.つまり歳をとっても禿げなかったようです.もちろん,サンペの笑いのツボは,禿頭とスカート(キルト)の組み合わせにあったのでしょうが.
そしてこの項を締めくくる最後の言葉はやはりサンペ.
「おニューのスーツをきているお前と同じくらい滑稽だな.あの,背中にベンツ(スリット)の幾つも入っているやつな.」この友達がいのあるやつは,しゃっくりをしながらそう私に言ってのけた.我が家に響く高笑いと画面上の厳かな面持ち.まったく信じられないほど対照的だ.それにしても,いいもんなんだよほんとうは.私のスーツことだがね.」(同上)
「この素晴らしい友だち」(cet excellent ami)はもちろん反語.そんなことを言うやつなんか友だちでもなんでもないの裏返しですな.(つづく)
背中のベンツは見えませんが,「おニューのスーツ」ってこんな感じでしょうか?
出典:Aymar du Chatenet, La Grande histoire du Petit Nicolas Les Archives inédites de Goscinny et Sempé, IMAV éditions, 2022, p. 207.(『大全』, p. 207)
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