« Leçon de choses », t.V, pp82-89.
前話(77)が« Leçon de code »で,このお話でもleçon,つまり「レッスン」という語が使われています.前回が交通ルールを教室で学びましょうでしたので,今回もやはり教室で「物」について学びましょうとなるようです.この「物」(choses)という単語,物資・物体ばかりでなく,抽象的な「モノゴト」を表すこともあります.Enfin, c'est la même chose.「それは結局同じことだ」なんて言い方をするときには,同じ結論に辿り着くという意味で,C'est précisément la même chose.「それは全く同じ物だ」とすれば,例えば,以前に無くしてしまった大切な時計と同じメーカー,同じ商品を指しています.この場合,無くした時計そのものを指すには少し工夫が必要で,「同じ」(même)という語は取り除いた方が良さそうです.ややこしい.
ところで「物のレッスン」って何でしょうか.担任の先生の説明によると,「みんなそれぞれ,何か物を持ってきてちょうだい.旅行した時の思い出とか,なんでも好きなもので良いのです.」それでどうするかというと,「その物の由来とそれにまつわる思い出」を説明するのだそうです.「これは実物教育と地理と作文を兼ねたお勉強になります.」邦訳では題名にもなっているLeçon de chosesが「実物教育」となっています.大変分かりやすいし,「物」が入っているだけに極めて正確な表現です.それにしても,担任の先生,うまくいくといいですね(たぶんダメでしょうが・・・).
先生は「思い出」(souvenir)という語を二度使用しています.この語にはは記憶,「思い出」という意味と,何かを思い出させてくれる物,つまり「思い出の品」の意味もあります.ですから,「由来,来歴」(son origine)とそれにまつわる「歴史,物語」(histoire)を伴う物であると先生も説明しています.いつから使い始めたのか,最近聞くようになったカタカナ語「スーベニア」はこのsouvenirというフランス語の単語が英語に入り,英語読みしたものを日本語のカタカナに直したモノのようです.個人的な想い出(souvenir)ですが,フランスの友人に日本の「お土産」を渡そうとして,どう表現していいか分からなかったことがありました.だって,souvenirは「思い出」ですから,誰かの思いや記憶と結びついていなければならないはずと思ったのでした.答えはいとも簡単で,フランス人にはcadeau「プレゼント」として渡せば良いのですが,それはともかく,お土産の意味でスーベニアと聞くたびに,今も何か違和感を感じてしまいます.
さて,脱線から戻りましょう.家へ帰ってニコラは,すぐにパパに「旅行へ行った時のすっごい思い出の品」を要求します.するとパパは「すばらしい考えだ!実践的な授業だな!」(« C'est une bonne idée, ces cours pratiques. »)と大興奮.「品を見れば,その授業も忘れられなくなるしな.」でも,パパがノリに乗っているときには要注意というのが『プチ・ニコラ』の原則です.どうなることやら.それに,パパはまたもや「考え」(idée)という語を持ち出しました.以前(70)に,ママンと揉める原因となったあの語です.これは不吉だ.
案の定,例えば「恐竜の骨」を持ってきた子がいたわよといった担任の先生の言葉にパパは,「恐竜の骨だと?とてつもないことを考える奴がいるもんだ.」(« En voilà une idée ! »)と目を丸くします.同じ「考え」でも,先程の「すばらしい考え」とは内容が百八十度異なるようです.
恐竜の骨とは言わないまでも,ニコラはクラスメートを「びっくり仰天させる」物にこだわり,パパとケンカとなってしまいます.助け舟を出すのはいつもママン.それで「とても大きな,ひっくり返すと『バン-レ−メールのお土産(souvenir)』と書いてある貝殻」を持っていくことで落ち着きます.それで次の日ニコラは,「すっかり得意になって」,「栗色の紙に包んで」貝殻を学校へ持っていきます.「栗色の紙に包んで」というところから,如何にも丁寧で,大切にしている様子が演出されていると思います.それに,そんな物を大切にする習慣(つまり紙に包んで大切に運ぶような習慣)は,今は少し廃れてしまっているでしょうか.残念なことです.
それで1枚目のイラストを見ると,右端に大きな貝殻を手にした子が二人います.
どうやら物がかちあってしまったようで,右側の子は顔をしかめています.大人なら,「思い出」は人それぞれと軽く交わすところでしょうが,とっさにそんな機転を利かせられず,同一物としてしか見ないところが子どもの良いところでしょう.貝殻は貝殻なんです.
彼らの左では自慢げに大きなナイフを見せびらかしているジョアキムがいます.そして腰をかがめて,それを見咎めているブイヨンさんの姿も.ジョアキムのナイフはそれはそれは立派な物でしたが,ブイヨンさんは理由も聞かずに(聞こうとせずに)携行禁止品として没収してしまいます.ですから,このイラストは自分の持ってきた物を自慢するジョアキムの場面と,これからそれを没収するブイヨンさんの図を合わせて描き出しているのです.それに加えて,貝殻を持ってきた二人の逸話.つまり,三つの状況をたった1枚のイラストで説明しているのです.サンぺらしいし,それに見事な技量です.
それでは貝殻でバッティングした二人は誰でしょうか.実はそれはニコラではなく,リュフュスとメクサンでした.つまりニコラを合わせれば3人が貝殻を持ち寄ったというわけです.でも,リュフュスはちゃんと授業の趣旨を理解していました.
「そりゃ同じ貝殻だけどね,僕はね砂浜で見つけたんだよ.僕が溺れかけた人を救助したときにね.」(p.87)
リュフュス・・・言うにことかいて・・・とんでもない嘘をつきました.ま,持ってきたのが「ホラ貝」ですから,それもいいですが(ほらっ,法螺guyっていうし・・・ホラがいいーなんてのも).これが2枚目のイラスト.救助されているのは大人の,それもダイバーのようです.リュフュスは自分の何倍もある大人の体を,引っ張ってスイスイ泳いでいます.雲が見えますから,きっと風も強く,波が荒れているのでしょう.これが本当なら,警視総監賞ものの英雄的行為ですな.
とはいえメクサンがすぐにツッコミを入れます.
「笑わせんなよ.そもそも,お前は浮いてることだってできないじゃないか.それにさ,砂浜で見つけたって言うんなら,なんで裏に『プラージュ-デ−ゾリゾンのお土産』って書いてあんだよ?」(p.88)
見事な証明です.ここでニコラも「そうだ,そうだ!」なんて同調してますが,君の貝殻の裏にも,やっぱり「お土産」って書いてあるでしょうが.リュフュスも反論のしようがなく,もう,逆ギレしかありません.「引っ叩かれたいのか.」
イラストは以上の2枚だけですが,お話は続きます.ジョフロワがパパがスイスで買った金時計を見せびらかします.で,先生に叱られて,ポケットに入れたかと思いきや,無くしてしまいます.真っ青になったのは,どちらかというと先生のほう.授業で先生に持ってこいって言われたんだ・・・なんて,パパに言われた日にゃ・・・.二人で懸命に探し始めます.後はもうカオス.
ジョフロワが言った.「そうなんです,先生,ないんです.」
それで先生はジョフロワの机のところに行って,そこらじゅう探した.先生は僕らにも「一緒に探してちょうだい,時計を踏まないように注意してね」と頼んだよ.その時メクサンは僕の持ってきた貝殻を床に落としたから,僕は一発ひっぱたいてやった.先生がキイキイ言い始めて,僕らに居残りを命じた.ジョフロワは「金時計が見つからなかったら,先生家に来てパパに説明してね」とぼやき,ジョアキムは「ペーパーナイフの件で,先生,家にも来て説明してください」と言っていた.(p.89)
結局,万事うまく収まるのですが,最後に先生曰く,
「あなた方が持ってきた物のおかげで,先生,この授業のことは今後決して忘れないわ.」(p.89)
だそうです.と言うわけで,パパの「忘れられなくなる」という呪いの言葉は,実は先生に向けられていたというわけです.
最後に一言,「のおかげで」(gâce à)というフランス語の表現は,良い意味にも悪い意味にも使いますから,先生としても,あんたらがそんな物を持ってきた「せいで」と怒りをぶつけている日本語表現としても良いでしょうし,「のおかげで」と皮肉を込めた表現とすることも可能でしょう.どちらの意味で伝えたいかで,翻訳は変わるモノですし.
もう一言.「物のレッスン」という題名ですが,「レッスン」(leçon)には「授業,レッスン」だけでなく「教訓」という意味もあります.つまり,このお話では,先生は生徒に物を持って来させるという「考え」を抱いてしまったがために失敗してしまう.それでそんなことをニコラのクラスではしてはいけないという「教訓」を得たことになります.一見したところ生徒のための「物に関する授業」という意味で間違いないようでしたが,実はお話を最後まで読むと,先生の失敗談が「物から得た教訓」になったというお話でもあるのです.直訳にこだわって題名を翻訳するとしたら,みなさんならどちらを選択しますか?翻訳は一つの意味しか伝えられないのが歯痒いですね,という事例の一つでした.
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