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執筆者の写真Yasushi Noro

『プチ・ニコラ』(212)-1

« L'œuf de Pâques » dans Le Petit Nicolas Le ballon et autres histoires inédites, IMAV éditions, 2009, pp.23-31(Histoires inédites du Petit Nicolas=HIPN., vol.3).

 『プチ・ニコラ』を書籍の刊行順に1話ずつ紹介してきましたが,いよいよ最終巻に入ります.2000年代に入ってから刊行された3巻目の『未刊行作品集』には10の話が収録されています.その最初のものが「復活祭の卵」という題名のお話です.

 本コラムで直前に紹介した(211)は「僕の復活祭のヴァカンス」という題名で,ニコラ一家がメメの家で復活祭の休暇を過ごす話でした.パパにしてみれば,全然「休暇」ではありませんでしたが.それはともかく,題名から分かるように,今回のお話と同じ時期,同じテーマを扱っています.ですから,イラストが少し似ていても,それはそれで仕方ない.後で例えば,今回のイラスト3/6はこれ.


 バカみたいにでっかいチョコレートを嬉しそうに頬ばるニコラの図ですが,ニコラが可愛くない!とか,そんなに大きな(子どもの等身大の)チョコレートなんて,本当に子どもに与える?なんて疑問は置いておくとして,チョコの割れ目と口の形がパズルのようにシンクロしているなんてのは,前話(211)のイラスト3/8と同じです.ほらっ,似ているでしょ?


 前回の方が後に発表された話ですけど,どちらでも,チョコレートの食べ過ぎでニコラがお腹をこわしてしまうというお話が出てきます.まったく,子どもってやつは,反省のかけらもない.それからネタとして,復活祭→チョコレート→食べ過ぎという図式は,おそらくフランス人にはお決まりのネタ,復活祭といえば?という,子どもの頃の想い出とイメージを表しているとも考えられます.もちろん,同じ話のネタも,同じイラストも使いまわしたりはしていないのですが.

 直前のコラムでも触れましたが,今回の話は1959年3月29日に「シュッド–ウェスト・ディマンシュ」誌に掲載された,記念すべき第1話でした.今調べたところ,1959年の復活祭の日曜日はちょうど3月29日でしたので,二人の作者は,わざわざ季節に因んだ話を選んだことがわかります.今回のお話も前回と同様に,複数のエピゾードからなる為,こうこうこういうお話ですと,大筋(ストーリー)をお話しても全く意味がありませんし,面白くもなんともない.全体の構成は後ほど紹介しますが,話の最後でニコラの家に集まった子どもたちが全員,チョコレートの食べ過ぎでお腹をこわしてしまいます.ですから,雑誌の発売日に当たる復活祭の日曜日に大人が読めば,小話として楽しむ以外に,目の前にいる子どもがチョコを食べすぎないように注意したかも知れません.その意味では,このお話はラ・フォンテーヌのお話のように,教訓を含むものと受け取られた可能性はあります.『プチ・ニ』は日本でもフランスでも一般に児童文学に分類されるようですが,実際に子ども向けに書かれた文学かどうかはわかりません(私はそうではないと思います).でももし復活祭の当日,大人が購入した雑誌を子どもが読んでいたとすれば,どう?やはり食べすぎないようにしたのでしょうか?子どもにそんな自制心があるのでしょうか(ほとんどの子どもには,そんなものないでしょう?)?

 さてお話です.まずは,題名のすぐ下に付されたイラスト1/6をみましょう.

 今まで『プチ・ニ』を読んできた読者でも,電灯の下,右手に何か持ち,左手でそれに何か書いているこれが誰だかはわからないと思います.わからないことだらけだ.左側で,その男性を見上げているのはもちろんニコラ.机の上には白くて楕円形のものがたくさん載っています.これは卵.ですから,右側はパパで卵に色をつけているところ.背後の椅子の上には絵の具の筆とパレットが置いてありますし.socialery絵にしてもパパ,メガネをかけている時期もあったのでしょうか.エプロンかけてお茶目です.顔に妙なアザがあるのは,きっと卵に塗っている絵の具をつけてしまったものでしょう.パパは不器用という設定のようですから(でも日曜大工は嫌いではなさそうです.(91)では,ジョフロワのパパのために,一緒に木製の自動車を作っていますから,手先は結構器用かも?!).前話では触れられていませんが,実は復活祭の日には,伝統的に色をつけた卵を庭に隠し,子どもが見つけて楽しむのが古い習慣です.今はパリのような都会では庭付きの一軒家はほとんどありませんし,本物の卵ではなく,卵型のチョコレートを与えるのが主流なようです.習慣は変わるものです.そして習慣が変化すれば,だんだんと古い習慣は忘れられて行くでしょう.もはや,2022年現在の子どもたちは,サンタクロースを信じないように?復活祭の卵も,初めからチョコレートを隠す日としか認識しなくなっているかも知れません.でも,少なくともこのお話が掲載された1959年には,この話を読む人にはそんな習慣を理解できましたし,きっと部分的には維持されていたのでしょう.

 というわけで,復活祭の出来事にまつわるお話で,複数のエピソードが散りばめられているので,前回同様,少しずつ立ち止まりながら,そして文章を楽しみながら,イラストを読んでゆきましょう.


1)ニコラ家の復活祭について

2)パパが卵に色をつける

3)パパが庭の芝刈りをしない理由

4)ニコラの友だちが来て,庭で卵探しをする.ついでにブレデュールさんの登場

5)ママンが子どもたちにチョコレートを振る舞う

6)虚脱状態のママンをパパが励まそうとする


 前話よりは短いですが,それでも,このようにおおよそ6つのエピソードに分けることができます.それも各エピソードには,それぞれオチがついているので,さながら6つの短編でできているお話のようなのです.まぁ,みてゆきましょう.


1)ニコラ家の復活祭について


 僕ねぇ,僕は復活祭がけっこう好きなんだ.復活祭の日は,家でみんなで楽しむ.その日パパが最初にするのは,卵に色を塗ること.パパは僕に手伝わなくていいよっていうんだ.なぜって,僕が不器用だからなんだって.「おまえがぶきっちょなのは,お母さん譲りに違いない.」.(p.25)


 話の冒頭です.パパは朝から,卵に色を塗り始めます.もちろん,その後で庭に隠して,子どもたちに探させて,復活祭というイヴェントを盛り上げるためです.すっごく優しいパパですが,自分でも色を塗りたくてうずうずしているニコラには手伝わせません.よほど楽しい作業なんでしょうか.それはともかく,表面上の理由は,ニコラが「不器用だから」というものです.しかも言うに事欠いて,「お母さん譲り」ですと!?お母さん,聞いたら驚くやら,怒るやら.しかもこれまでのパターンですと(第1話なので,「これまで」はあるはずもないので,正確には「これからのパターン」なのですが),ニコラは素知らぬふりして,そのままママンに伝えてしまうはず.それに,やはりパターンとしては,パパがちょっと自慢したり,人を貶したりすると,必ず自分にその報いが返ってくることになります.因果応報.それがお話の終わりのオチになったりするのですが,こうした複数のエピソードが散りばめられているときには,オチはすぐ後に出てきます.続きを読んでみましょう.


パパは台所で卵に色を塗り始めるんだ.でも毎年ね(毎年といっても,僕が覚えている2年だけなんだけどね),パパが全部やり終えるのは屋根裏部屋.しょうがないんだ.だって,パパはいつも卵を1個か2個,台所のテーブルの上で割っちゃったり(今年がそうなんだ),絨毯の上で割ったり(これは去年のこと),ママンの洋服の上にぶちまけちゃったりでね(その前の年だ.僕がまだちっちゃかった頃ね).それでママンが「実家に帰らせてもらいます!」って言って,みんなでわっーって泣くんだ.(id.)


 つまり,パパは台所で作業を始めても,卵を割ってその辺を汚してしまうので,ママンに叱られて場所を移動しなきゃならなくなるんです.一言で言うと,パパは「不器用」です.と言うわけで,ニコラに「おまえは不器用だから」どころか,それを口にしているパパの方が不器用だとすぐに判明する.そんなパパとそこら中卵でベタベタになった台所,絨毯,ママンの服を見て,ママンはパパに怒る.パパは多分,言い訳をしつつ逆ギレ?それでいつもの夫婦ケンカになり,横で見ているニコラも泣き出す.阿鼻叫喚の地獄絵です.


2)パパが卵に色をつける


 今年のパパはニコラが観察している通り,「台所のテーブルの上」で卵を割ってしまい,おそらく毎年のママンのリアクションの記憶が蘇るのでしょう,それともまだ登場はしていませんが,ママンに怒られたのかも知れません,やはり屋根裏部屋に移動したようです.


パパが屋根裏部屋から降りてくると,いつでも持って上がった数より少なくなってる.でもね,持って降りてきた分はすっごくキレイなんだ!青いのや赤いの,緑のとか,全部の色をのせたやつとかね.まるでパパのズボンみたいだよ.(p.26)


 さりげないようでいて,さすがニコラの観察は鋭い.「降りてくると,いつでもいつでも持って上がった数より少なくなってる」.つまり,パパは屋根裏部屋でも作業中にやっぱり卵を割って,部屋を汚しまくっているのです.そして,「パパのズボンみたいだよ」は,パパが色とりどりのズボンを履いていることの観察なのですが,パパのズボンが色とりどりなのは,もちろん,卵に塗っている絵の具を跳ね飛ばし汚してしまった結果なのです.もう,そんなズボン,人前で履けないでしょとママンが怒ったり,呆れたりするのは当たり前.それで,すぐ次にママンが登場します.


僕がパパに,「こんなにキレイなの見たことないよ」って言ったら,パパはすっごく自慢げだった.ママンもねパパに「さぞかし,ご自慢でしょうよ!」と言ったんだよ.ママンはほんとうにそう思ったんだ.だって,そう言ったとき,ニコリともせず真剣そのものの顔をしていたからね.(id.)


 ハハハ・・・.やっぱりニコラはKYだ.ママンの「さぞかし,ご自慢でしょうよ!」(« Tu peux être fier ! »)は,文字通りには,「あなたは自慢してもよい,自慢できるわね」で,明らかにイヤミです.でも,ニコラは<文字通り>にしか理解できないキャラなのです.前話(211)で,朝に叩き起こされたブレデュールさんの「お・き・を・つ・け・て!」(「よいご旅行をどうぞ」)に対してだって,旅行の無事を気遣ってくれるなんて「やっぱり,ブレデュールさんは親切だ」と,誤解?していましたから.


 1)と2)を見てきましたが,こんな感じで,観察−ツッコミ−オチが何回も繰り返されて全体ができています.だから全体をまとめてこんなお話ですと提示しても無意味なのです.でも,少しずつでも,読むのが楽しみでしょ?

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