『「プチ・ニコラ」大全』(72)
- Yasushi Noro
- 6 時間前
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Aymar du Chatenet, La Grande histoire du Petit Nicolas Les Archives inédites de Goscinny et Sempé, IMAV éditions, 2022, p. 16-18.
次はサンペの生い立ちです.
「サンペ,ボルドーの悪ガキ」(p. 17)
ゴシニと同じく獅子座のサンペは,1932年8月17日,ジロンド県のペサックに生まれました.ゴシニより6歳年下です.遠く太平洋を挟んだ別々の国に住んでいただけでなく,二人はまったく異なる環境で生まれ育っているのですが,『大全』の著者は,二人には「将来,ちっちゃなニコラ(プチ・ニコラ)をひょうきんかつ普遍的な性質を持つ小学生に仕立て上げる要素」が備わっているといいます.
サンペは長らく,子ども時代のことについては口を閉ざしていたのですが,2011年の,ジャーナリストのマルク・ルカルパンチエ(Marc Lecarpentier)によるインタビューをきっかけに知られるようになりました*.
*Sempé, Enfances, entretiens avec marc Lecarpentier, éd. Denoël/Martine Gossieaux, 2011.
後にサンペは,「とりわけ,穏やかな家庭生活を持つことを夢見ていた」,と発言していますから,すでに「穏やか」でない家庭生活を予想させます.「口を閉ざしていた」(discret)というのも,その辺の事情に関わるのでしょう.
「困難な子ども時代」(p. 17)
サンペの家では,頻繁にサンペの父親,そして母親によるビンタや殴打が飛び交っていたそうです.すでに衝撃的な内容なので,原文を引いておきます.( une avalanche de gifles et de torgnoles données aussi bien par M. Sempé que par madame ).gifleは「頬などへの平手打ち,ビンタ」であるのに対し,torgnoleは「軽い殴打」を含む表現です.
「僕は殉教者のような生活をしていた.」(p. 17)
但し,サンペは両親に対して特に恨みを抱いていたわけではないようです.
「両親はそのときできることをしただけなんだ.」
サンペの父親であるエドモン−ユリス・サンペは缶詰を販売する会社の代表で,一日の終わりにはよく居酒屋(bistrot)に寄り道してから帰ってきました.プリュニエ通りの家に帰ってくると,奥さんと殴り合いの喧嘩をしていたそうです.怒号と食器の壊れる音がして,夫婦喧嘩はご近所に筒抜け.子どものサンペはとても恥ずかしく思っていました.「言い争い,借金,差押えの心配」,これらが少年の日常を形成していたのです.
「『プチ・ニコラ』は,僕が夢想した子ども時代なんだ.」( « Le Petit Nicolas, c'est " l'enfance rêvée "* » )
*Entretien avec Sempé, Libération, 6 mars 2009.
「ルネも僕も素晴らしい子ども時代を過ごしたわけではなかった.だから,『プチ・ニコラ』を利用して,正反対の生活を示したんだ.お話の中では,少年がパンチを喰らったって,たいしたことないだろ?でも,現実の生活では,すっごく痛いんだ.」
ゴシニの家庭環境に関しては,これまで見てきたところでは,母親に愛され,かなり恵まれていたような記述でしたので,「ルネも僕も」の部分はちょっと矛盾するような気がしますが,ここには説明がありません.それはともかく,『プチ・ニコラ』の幸福な世界からは想像もつかない子ども時代だったようです.
「実際とはかけ離れた子ども時代を思い描いているのは承知している.僕の子ども時代はぜんぜん愉快なものではなかったから,僕は一所懸命,自分の子ども時代から逃れようとして,それで想像し夢想できる限り,無理やり子どものころのことを美化したんだ*.」
*前掲Enfanceより.
貧困,暴力,文化のブの字もない環境,サンペが成長したのはそんな世界でした.
「家には本なんてなかった.両親には本を買う余裕なんてなかったんだ.」
おまけに・・・これ以上何かあるのかと読み進めると・・・サンペは偶然,自分が私生児であり,サンペの父親は本当の父親ではなく,弟のピエールと妹のフロランスは異父兄弟,異父姉妹であることを知ったのです.
「弟と妹は僕が面倒を見てやらなきゃならなかった.二人を慰めるのは僕の役目だった.僕は兄だったからね.(略)そう,地獄だったよ.」(p. 17)
「騒々しい生徒」(p. 18)
「学校は憩いの場だった.避難所だったんだ.」(p. 18)
それで!?「よく罰を受ける悪い生徒,落ちこぼれ」でした.
「バカ騒ぎは唯一の気晴らしだった.」
サンペは9歳のときに,ボルドーの「現代型中学校」(collège moderne)から退学処分を受けてしまいます.
「僕はある教師に,『おまえなんてうんざりだ』(il m'emmerdait)と言ったんだ.先生は耳が聞こえなかったんだけど,ついてないね,僕の唇を読んだってわけさ.」
サンペの母親はダヴィド−ジョンストン校への入学許可を得ました.ここで『大全』の著者は『プチ・ニコラ』を「クラスでトップと劣等生の両方の思い出から誕生したのでは?」とまとめていますが,う〜ん,これはどうでしょうね.
サンペはフランス語については,ラジオがあったおかげで困難な状況から抜け出したそうです.それもまた,現実逃避の一手段だったのです.
「ラジオが生命を救ってくれたんだと思う.」
サンペはこの頃,友だちから「サンペ殿」( Monsieur de Sempé )と呼ばれていたほど,ラジオから流れてくる丁寧表現を用いていました.学校で「殿」付きで呼ばれるサンペは,こうして自宅での殴打と食器の割れる音から逃げていたのでした.( Sempé avec particule à l'école fuit le « Jeannot » des coups et des bris de vaisselle à la maison. )(ちょっと勿体ぶった書き振りですかねぇ.)
フランスがドイツから解放され(Libération)た年,サンペは12歳.学校生活はカオスそのもの.学習ノートにはジープに乗った兵隊さん,音楽家,スポーツマンなどを書き殴って自己逃避していた時期でした.サッカーに熱中し,水泳と自転車にハマっていたようです.
15歳で学校を卒業すると,バカロレアどころではありません.家にお金を入れなければなりませんし,働いて生計を立てねば.そこで一念発起して,アルバイトをたくさんします.公務員試験はすべて失敗しますが,フランス国有鉄道(SNCF)から郵便・電話局(PTT=Postes, Télégraphes et Téléphones)に至るまで,2年ほどの間,自転車での配達人,歯磨き粉の販売人,ワイン製造用蒸留器の計量係をしたり,ジョヴェッティという名のワインの仲買人のところで働いたりとあらゆる職につきます.それでもサンペは夢を追い続けます.サッカー選手,特に音楽家になりたかったのです.
「僕がしたかったのは音楽だった.だけどそのためには勉強をしなきゃならない.僕はしていない.家は,一生涯這い上がれないような極貧だったんだ.うんざりだ*.」
*前掲Enfanceより.
サンペは仕方なく諦めます.ピアノよりも紙と鉛筆を入手する方が簡単でしたから.こうして絵描き(dessinateur)を目指すのです.絵にも情熱を抱いていましたし.
「そもそも,こういう風に僕は絵を描き始めたんだ.こうさ.ガキの頃,ポル・ミズラキの歌を聞いたことがあってね,すごく気に入ったんだ.「幸せになるのに,一体何を待ち望む?」( Qu'est-ce qu'on attend pour être heureux ? )って曲で,レイ・ヴァンチュラのオーケストラのやつさ*.どこかのショーウィンドウでそのオーケストラの写真を見たことがあったんだ.(略)その合唱隊が良くってね.白のベストに蝶ネクタイしてさ,すっごく陽気に見えた.それでレイ・ヴァンチュラのオーケストラの絵を描き始めてね.ラジオで好きな音楽を探しては絵に描いて時間を過ごしてた**.」
*1938年にポル・ミズラキが作曲,アンドレ・オルネスが作詞し,レイ・ヴァンチュラのオーケストラが録音したレコード(78回転盤)を指すのだろう.
** Sempé, catalogue de l'exposition réalisée à Caen, éd. Denoël, 1984.
定職もなくサッカー選手,ミュージシャンにもなり損ねて,サンペは「偶然,そしてやむを得ずから絵描きになる*.」
*« Sempé », Carton, Les Cahiers du dessin d'humour, no. 1, 2e trimestre 1974.

『大全』, p. 16. 幼い頃のサンペの写真.書き込みはおそらくご本人.⭕️と⇦は引用者による.



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