『「プチ・ニコラ」大全』(71)
- Yasushi Noro
- 9 時間前
- 読了時間: 8分
Aymar du Chatenet, La Grande histoire du Petit Nicolas Les Archives inédites de Goscinny et Sempé, IMAV éditions, 2022.
『大全』目次
ゴシニとサンペ 優等生と劣等生 .......................... 11
運命の交差 .......................... 33
友情 .......................... 55
『プチ・ニコラ』,最初の一歩 .......................... 67
超ナイスなクラスメートたち .........................119
『プチ・ニコラ』,雑誌『ピロット』でアステリクスと同時掲載 ........................159
『プチ・ニコラ』,フランス文学の古典になる .........................179
永遠のヒーロー .........................221
『プチ・ニコラ』刊行一覧 .........................241
『プチ・ニコラ』関連年表 .........................252
あれから彼らは・・・ .........................253
『プチ・ニコラ』書誌 .........................254
謝辞 .........................255
(目次には掲載されていませんが.図版一覧 .........................256)
前項目『「プチ・ニコラ」大全(70)』を書いたのが2025年9月30日.ほうほう,ほぼ3ヶ月も経ってしまいましたか.その間,今年のフランス語中級の授業では『プチ・ニコラのおかしな世界』(三修社)を読んでいますし,日本フランス語フラン文学会・中国・四国支部大会では「アトリエ」という枠組みで,「お金の価値」というお話について話をしましたので,『プチ・ニ』については,あまり久しぶりという気もしないのですが,ともかく『大全』に関するブログを3ヶ月も放っておいたのは確かです.学期中で忙しかったとか,久しぶりに読書に励んでいたとか,言い訳は幾らでもできそうですが,おそらく放置の1番の理由は,前回で『大全』は読了,直接『プチ・ニコラ』のお話に関連するところの紹介が終わってしまったので,最初に戻って作者の伝記部分も紹介しますかと書いてはみたものの,何となくおっくうで(死語でしょうか?),重くて厚くて大部の『大全』を開く気になれなかったという感じでしょうか.それに,お勉強(研究)のほうも,少し方向性と興味を見失っていたから,気晴らししたいという感覚もやはり薄れていて,『大全』に手が伸びなかったのかも.
何れにせよ,久しぶりに開いて上記↑目次とかつて書いたブログをパラパラ読み直していたら,『大全』紹介を始めるにあたり,「『大全』(1)」(ブログ)で,アンヌ・ゴシニの序文から,p. 6-7の作者二人のイラストと発言の抜粋,p. 8の,やはり抜粋,p. 9の目次は,序文以外すべて(1)で訳していました.そして(2)で,直接『プチ・ニコラ』に関係する箇所(p. 67〜)までのところを,少し紹介したりしていました*.それで(3)で,本格的な紹介(p. 67〜)に入ったのです.
要するに,今回からはp. 66まで,つまり,目次↑でいうと,第1章「ゴシニとサンペ 優等生と劣等生」,第2章「運命の交差」,第 3章「友情」の三章を見てゆきましょうということです.
*
目次の次の赤いページ(p. 10)には,各章の冒頭に置かれた作者の発言の抜粋が引用されています.他の章でもそうですが,出典はついていません.
「あなたはほんの少し,『プチ・ニコラ』(ちっちゃなニコラ)と似ているのではないですか?」
「そうですね.幼い頃は無邪気でしたし,のんきで,よくはしゃいでいました.」(ルネ・ゴシニ)(p. 10)
「ニコラというのは,僕がなりたかった少年だ.」(ジャン−ジャック・サンペ)
これらの発言が,p. 7の「いつだって,誰も皆がボヴァリ夫人なんだ.ほんの少しだけだけどね.ちっちゃなニコラ(プチ・ニコラ),それは私だ,なんてとんでもない.でもね,少しはそうだった.ニコラのクラスメートの誰も彼も,少しは私だったんだ.」(ゴシニ)という発言と呼応しているのは確かでしょう.そしてこれらの発言を(出典もなく,文脈もなしに)切り取って紹介した引用者,つまり本『大全』の著者(たち)は,お話の登場人物である「ニコラ」に作者二人の面影を見ている,あるいは見たいと考えているのでしょう.さらには,『プチ・ニコラ』の読者にも,ニコラやその仲間たちに自分の子ども時代を重ね合わせて読んで欲しいのかな,と.そのように読んだ時,文学作品は「無時間的で普遍的な」(アンヌ・ゴシニ)性質を与えられ,登場人物は「永遠のヒーロー」(章の題名)となるのでしょう.私とは少し考え方や読み方が異なるのですが,作品が読み継がれて欲しい,そのために時間も労力もかけて魅力を語るという方向性には共感できます.
第1章「ゴシニとサンペ,優等生と劣等生」は,「永遠のヒーロー」たる「ニコラ」に,二人の作者の子ども時代が「ほんの少し」反映されているという前提で置かれたのだと思います.誕生から二人の出会う前までが,比較的詳細にたどられています.
「私は言葉を話すよりずっと前に,おどけた表情をするようになっていました.」(ゴシニ)(p. 12)
「僕は大人になれなかったんだ.」(サンペ)(同)
*
「ルネ・ゴシニ,ブエノス・アイレスでの平穏な子ども時代」(p. 13-15)
「アルゼンチンに着いたら,そりゃあ素晴らしかった.われわれの到着に合わせて,花飾りがたくさん用意されていて,軍隊が行進し,花火まで上がった.アルゼンチンの人たちはほんとうに歓迎が上手だなぁ,と.だいぶ経ってからね,その日がアルゼンチンの国民の記念日だと知ったのですがね.」(ゴシニ)(p. 13)
ゴシニの子ども時代は『プチ・ニコラ』で描かれているようなそれとはだいぶ異なっているようです.ルネ・ゴシニの両親はウクライナとポーランド出自のユダヤ人移民で,ゴシニが生まれる14日前にフランスに帰化したばかりでした.ですから,ルネは「正真正銘のフランス人」として(原文では« gaulois »,つまりゴール(ガリア)人とは,フランス人のご先祖),1926年8月14日に生まれました.
「私はパリの5区,パンテオンからさほど遠くないところで生まれました.『偉大な人々に,祖国は感謝する』*,生まれてすぐ,人からそんな風に言われるなんて,滅多にあることじゃないね.」
*『偉大な人々に,祖国は感謝する』( " Aux Grands Hommes, la patrie reconnaissante " )はパリのパンテオンの正面に刻まれた碑文.
相変わらず,ユーモアと詩的センスを感じさせるゴシニの発言です.ゴシニはフェール・ア・ムーラン通り(rue du Fer-à-Moulin)の42番地の建物に,両親とお兄さんと一緒に住んでいました.建物は今はもうないそうです.
ルネの生まれる前,両親は1905年頃にワルシャワを離れてフランスに移住しました.ルネの父親であるスタニスラスは,化学系の技術者で,炭鉱の会社で働いていました.会社命令で世界中を移動していたようです.スタニスラスの奥さん,つまりルネ・ゴシニの母親アンナはウクライナ系のロシア人で,1904年の「ポグロム」,つまり東欧でのユダヤ人迫害を逃れてきました.アンナはベレニアク家という碩学を輩出した一家の出身でした.ベレニアク家(les Beresniak)のアブラハム・ラザール・ベレニアクは1912年にパリで印刷所を設立し,主にイディッシュ,ヘブライ語,ロシア語,ポーランド語などの出版を行なっていたそうです.この辺はAIさん(Copilot)に本日,教えてもらいました.
しかし前述の通り,ゴシニは2歳のときにフランスを離れ,1928年に家族でアルゼンチンに移住します.
「ヨーロッパを離れて」(p. 14)
この移住について,『大全』の著者は「家族を救済した,父親の直感」と表現しています.それは一家が「ショアー」の大禍を逃れたのに対し,パリに残り印刷所で働いていたアンナの兄弟たちがアウシュヴィッツの強制収容所に送られてしまった事実を踏まえてのことです.このことはルネ・ゴシニの心に深い傷を残したようです.
当時,1930年代のアルゼンチンはヨーロッパの一部のようであったそうです.ゴシニ家はアルゼンチンを第二の祖国として愛しました.一家が住んでいたのはパリのオスマン通り界隈に似た雰囲気のサルジェント−カブラル通り.ルネの母親は過保護で,ルネは「アシュケナジ文化を受け継いだ親子の愛」,つまりユダヤの伝統的で強い絆で結ばれた母親−息子関係の中で育ちました.
父親のスタニスラスはいつもピシッとした身だしなみのジェントルマンでした.掲載されている写真のどれでも,ピシッとしています.「典型的な父親」と形容されていますが,ニコラのパパもそうですね.スーツは着ていたかどうか分かりませんが.スタニスラス・ゴシニはサラリーマンの事務員といった風情は微塵もなく,非常におおらかで,世界をわたり歩く人道主義的な人であったとのことです.
ある日の親子の会話:
ルネ:愉快な職に就きたいな.( je voudrais faire un métier rigolo. )
スタニスラス:そりゃいいな!( Tu as bien raison ! )
両親には,ルネに道化の素質があることを意識していたそうです.ルネには「喜劇ノ力,すなわち人を笑わせる能力」(vis comica, le pouvoir de faire rire)がありました.
「私は小さかった頃,すでに,人を笑わせたいと思っていた.自分を見せ物にするのが大好きだったし,とても早い時期に,子ども言葉を操る技術を確立していたんです.」(p. 14)
『プチ・ニコラ』でのニコラの語りは,確かに書き手ゴシニが子どもの頃に培った技術だったのです.
「模範的な学生時代」(p. 14)
道化,ひょうきん,おどけ者...,それでもルネはブエノス・アイレスのフランス人学校で優等生でした.お笑いと学業,別に矛盾するわけでもないですしね.ゴシニはどの写真見ても,その精力的な仕事からしても,いかにも生真面目かつ几帳面な感じです.学校では数々の表彰を受け,文学関係の科目では際立っていました.
「宿題にしてもユーモアの視点でこなすためなら,点数が悪くたって平気だったでしょう.真面目な学生になろうなんて,はなから眼中にありません.そうだったら,なんて思いもしません.だって,私がクラスでトップだったのですから.それにしても,思うに,アニャンタイプのガリ勉が人生で成功するのは,そうでない連中よりもはるかに難しいのです.」(p. 14)
ルネは「哲学−文芸」のバカロレアを取得します.将来一緒に働くことになるマンガ家連の中では,おそらくルネが一番学歴が高いに違いない,というのが『大全』著者のコメントです.
ルネが17歳の時,父親のスタニスラスは梗塞で亡くなります.それから1943年,母親と共にアルゼンチンを後にしアメリカへと向かうのです.

『大全』p. 15.右下の小さな少年がもちろんルネ・ゴシニ.パーマのような髪の毛も特徴的ですが,やはりお母さんにギュッと掴まれているのが,らしいというか.
*
次回はサンペの回となります.



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