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『「プチ・ニコラ」大全』(57)

  • 執筆者の写真: Yasushi Noro
    Yasushi Noro
  • 9月6日
  • 読了時間: 4分

Aymar du Chatenet, La Grande histoire du Petit Nicolas Les Archives inédites de Goscinny et Sempé, IMAV éditions, 2022, p.179-219.

『大全』第7章

『プチ・ニコラ』,フランス文学の古典になる .........................179

第7章第3節「スクリーン上のプチ・ニコラ」(p. 192-195)


「スクリーン上の」とついていますから,スクリーン=映画となりそうですが,フランス語で「スクリーン,映写幕」を表すécranには,テレビの「画面」(よくpetitをつけます)のいみもあるし,「ディスプレー」(例えばパソコンなんかの画面),「モニター,タッチスクリーン」なんてのもみんなécranですから,紛らわしいというより,どうしても一語で訳せない.「画面上のプチ・ニコラ」でも良いし,テレビ放映も含めると,このほうが正確といえば正確といえそうです.一番良いのは,「映像版『プチ・ニコラ』」でしょうかね.そのつもりで読んでください.


第3節は,というわけで,1960年代の『プチ・ニコラ』の映像化の話がまとめられています.前節で2人の作者はテレビに出演していましたから,『プチ・ニコラ』は書籍としてかなり人気が出ていたわけで,すぐに映像化の話がきます.今の日本では,マンガ原作のアニメ化,実写化,映画化などがたくさんありますから,自然な流れとして理解できますね.『プチ・ニコラ』の場合には,但し,人気があったから,というより,どうも「子ども時代」を表現するのに最適な原作と考えられていたようです.

 1962年に,パテ−マルコニ(Pathé-Marconi)というプロダクションが映像化に最初に手を挙げました.アニメーションにしたかったようです.「6分間の「準アニメ」(sémi-animée)シリーズの翻案(つまりアニメ化)」の制作が提案されました.ゴシニが1話につき1000フランで,シナリオと脚色を担当する予定だったようですが,この企画はぽしゃってしまいます.実際にアニメ化が実現するのは,40年以上後の2009年のこと・・・.

 その後,映像化の企画が出てきては消え・・・と繰り返し,サンペは絶望のどん底.1964年3月17日のゴシニへの手紙に次のように書き送っています.


「くそったれ!映画はなしだな!君(ゴシニ)があの間抜けな連中と孤軍奮闘とは困ったもんだ.つまり,君がたった一人で辛い仕事をしているってのが,とりわけ煩わしいよ.結局のところ,技術監督を一人雇って,われわれだけで映画制作をする方がよかったんじゃないかと思うんだ.考えれば考えるほど,その方がいいって思えてくる.君が戻ったら話そうじゃないか.必要なら,シナリオを用意しなきゃな.(略)映画関係で僕の知っている連中は口を揃えて,プロデューサーを見つけるなんて,そんな簡単なことないよって,言っているしさ.」(p. 192).


 ゴシニもサンペと同じように考えていたようです.いわんやゴシニは1960年代初頭のこの時期,映画のシナリオの執筆に情熱を抱いていて,映画でのキャリアを歩み始めていたのですから.ここからゴシニと映画の関係の話になります.ゴシニはアレクス・ジョフェ(Alex Joffé)が1961年に監督したTracassin ou les plaisirs de la villeという映画作品で,主演のブルヴィルにギャグを提供していたとのことです.さらに,同年に制作されたジャン−ジャック・ヴィエルヌ監督によるTintin et le Mystère de la Toison d'orでは,アンドレ・バレ(André Barret)と,レモ・フォルラーニ(Remo Forlani)と共同でシナリオを執筆しています.さらにさらに『ムスチーク』誌(Moustique)*に掲載された推理物が1963年にテレビで放映されていたそうです.

*本ブログ『プチ・ニコラ』(123)

 『プチ・ニコラ』の映像化企画が実現しなかったために,サンペはゴシニに,仲間ならではの「皮肉」を書き送ったそうです(1964年3月25日付け)


「かわいそうなルネちゃん,君は映画をつくって,クレジットと「シネモンド」誌に名前を入れたかったんだろうけど,考えてもみろよ,会計係の助手の助手の仕事をしていたほうがよかったんじゃない?少なくとも,働いた分くらいはお金がもらえるんぢゃない?」(p. 192)

**シネモンド(Cinémonde)は1930年代に創刊された映画雑誌.1970年代に廃刊.


 1967年にはジャクリヌ・マンザノという映画監督兼プロデューサーが長編映画を制作しようと版権を取得したそうですが,シナリオがダメだったとのことです.サンペはこの映画化に反対と表明しつつ,ゴシニにしぶしぶ承諾の意を伝えています(1967年9月27日付け).ゴシニ曰く(1967年10月6日号の『フィガロ』誌),「監督は辛抱強く,才能ある子どもを一ダースほど,つまり聞き分けの良い子を20人ほど見つけてこなければならないでしょう.」でも結局,この企画もぽしゃってしまいました.


 次のページからはようやく実現した『プチ・ニコラ』の映像化のお話です.(続く)

1964年,最初の映像版『プチ・ニコラ』となるテレビドラマ「世界の子ども」撮影時に作業をするゴシニとサンペ(p. 193)
1964年,最初の映像版『プチ・ニコラ』となるテレビドラマ「世界の子ども」撮影時に作業をするゴシニとサンペ(p. 193)



 
 
 

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