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『「プチ・ニコラ」大全』(54)

  • 執筆者の写真: Yasushi Noro
    Yasushi Noro
  • 2 日前
  • 読了時間: 6分

更新日:19 時間前

Aymar du Chatenet, La Grande histoire du Petit Nicolas Les Archives inédites de Goscinny et Sempé, IMAV éditions, 2022, p.179-219.

『大全』第7章

『プチ・ニコラ』,フランス文学の古典になる .........................179

続き(p. 184-187)


第7章第1節「書籍版『プチ・ニコラ』:失敗から成功へ」は今回で終わります((51)-(54)).


p. 184-185は2ページ見開き,ドーン! 『プチ・ニコラと仲間たち』(Le Petit Nicolas et les copains、書籍版第4巻)の「見返し」(page de garde)用のイラストが掲載されています.放課後,子どもたちが公園を駆け抜ける横長のイラストです.『大全』が大判で,なおかつ見開き2ページだと,細部まで見えて実に面白い.後景に配置された,ベンチで新聞を読む孤高のおじさんのメガネ,乳母車をおいて編み物をしているお母さんたちの表情までよく見えます.みんな,このイラストをこちら側から見ている私たちの,子どもたちを挟んでちょうど反対側から,はしゃぎながら走る子どもたちを眺めています.孤高のおじさん以外は.いや,おじさんだって,新聞に集中している振りをしながら,横目でちらちら,子どもたちを観察しているのかもしれません.そのくらい,彼らの走り抜ける姿は楽しそう.1日のお勉強が終わって解放されたからでしょう.それに騒々しい.広くて大きい公園に,小さな子どもたちの対比,音を感じさせる風景,登場人物の視線から中心がわかる構図,すべてサンペらしい見事なイラストだと思います.

 「見返し」のためのイラストですから,どれかのお話と結びついて,場面を描写しているのではありません.でも,放課後のニコラの友だちが出てくるお話しなら,どれにも当てはまりそうです.労働(お勉強)→解放(放課後)→帰宅(友だちと一緒)と図式化すれば,普遍的な意味が醸し出されるということでしょうか.

 ところで,イラストの下の説明では,確かに「『プチ・ニコラと仲間たち」の見返し,サンペのデッサン,えんぴつと墨,1963」と記されているので,なんとなくそのまま信用してしまいましたが,たった今,つまりブログの最初の文を書いた翌日,すなわち今日,確かめてみたら,このイラストは文庫版(<folio>)でも,1963年のドノエル版でも,見返しに使用されていません.中はどうかとパラパラめくってみたのですが,見当たらない.ということは,もしかしたら,どこにも掲載されていないのかも,とこれまでのイラストをざっとみたのですが,やっぱないかも.それでは省略予定だったのですが,しかたない.掲載しておきましょう.

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 でもさすがにこの大きさでは,背後のベンチに座っている人たちの顔つきまではわかりません.うじゃうじゃ感は伝わるでしょうが.


p. 186-187は2人の作者が,『プチ・ニコラ』第1巻の宣伝のために用意した履歴書です.まずはサンペから.


「1932年8月17日,ボルドー生まれ.

学業,ぱっとせず.はしゃぎすぎ.

規律違反のかどでボルドーの現代中学校を放校.

パリで兵役に就く.何日も懲罰房で過ごす.19歳,ユーモア・デッサンを始める.

『シュッド・ウェスト・ディマンシュ』紙に最初のデッサンを掲載.

当初困難,猛烈労働.

今現在,『パリ・マッチ』,『パンチ』と協働.

1954年に「友人」ルネ・ゴシニと『プチ・ニコラ』の連載開始.

既婚.子ども1人(ニコラ,4歳)」


 簡潔というか,簡潔すぎるというか.嘘はないんでしょうが,事実だけの羅列のようでいて,時折ひねりの効いた,感想めいた句が挿入されています.それがユーモアを産むのかな.


 次はゴシニです.几帳面な彼は,いつものようにタイプ原稿で提出したようです.


「みなみなさま

 電話をいただいて後,急遽認めました,以下私の履歴書となります.


ルネ・ゴシニ

1926年8月14日,パリ生まれ.

2歳の時に両親に連れられてアルゼンチンに渡航し,そこで17年間過ごしました.ブエノス・アイレスのフランス人中学校で勉強をし,文学の学士号を得て卒業しました.」


 ここまでは生真面目に書いています.サンペと異なり,文章形式になっていますし,句読点もしっかりついています.ユーモアらしきものが漂い始めるのは次の節から.


「私は大きなタイヤ工場の会計の副助手(おバカな人でした)の助手(アシスタント)として働き始めました.一年後,私が彼らの元を去った時,円満退職でしたが,あの人たちは凹んでいました*

*« ils étaient à plat » : à platには「疲れている,意気消沈している」以外に,pneu à plat「空気の抜けたタイヤ」という用法もあるので,ここではおそらく,ゴシニとうまくやってゆけず疲労困憊していたという意味と,タイヤ工場なので,空気が抜けたようになったという冗談を掛けている.


「つぎに私はブエノス・アイレスにあるアメリカの広告会社でイラストレーターとして助手(アシスタント)になりました.その後,オーストリア人で広告のイラストレーターの助手となりました.わたしの助手としての進歩が尋常でなかったので,私を受け入れるキャパがあるのは,あとはアメリカしかないと考えました.

1945年,ニューヨークに到着した私は,輸出入を手がける人の助手になりました.二か国語あやつる秘書の役割です.私は話しかけられる時には英語で,話す時にはフランス語で応対していました.二か国語というのはそういうわけです.

アメリカの軍隊からコラボの申し出がありましたので,私はフランスの軍隊に入ることにしました.その折りの,私の雇用主の喜びようったら.

1年間をフランス陸軍の141山岳歩兵部隊?(BIA)で過ごし,最後は予備軍曹(sergent de réserve)の階級を得ました.

全部終わってアメリカに戻り,幸運にも『MAD』**を創刊することになるメンバーと知り合い,彼らの助手として働くことになりました.それから児童書を扱う編集者の元で,アート・ディレクターになったのですが,その人はその後すぐに破産しました.

**『MAD』は1952年に創刊されたアメリカの風刺コミック雑誌. https://www.dc.com/mad


「その時です.ジラン,モリス,デュピュイ,トロワフォンテヌ***と知り合ったのは.

***『「プチ・ニコラ」大全』(09), (11), (49).


トロワフォンテヌ氏は,いつか,私がアメリカを離れでもして,ブリュッセルを通りかかるようなことがあれば,会いにきたら,といってくれたのでした.

2週間後,私はトロワフォンテヌ氏に私が書いたデッサンをいくつか見せました.ブリュッセルで.

これがきっかけで,私の豊かな人生キャリアが始まりました.こんなに銭が溜まって,私は本当にどうしちゃっていいのかわかりません.アメリカに戻り,TV Familyの制作のお手伝いをしてからフランスに戻り,またもやアメリカに戻り,はたまたフランスに戻り,私はデッサンをやめて,物書きを始めたのです.

私は『ピロット』誌の創刊メンバーの1人となりました.たくさんのマンガの作家となりました.『リュッキー・リュック』(1953年から,だったと思う),『ウンパパ』(Oumpah pah),『アステリクス』,『Gaudeamus』****(1960年から),『Le Calife Haroun El Poussah』などのシナリオ担当.『プチ・ニコラ』シリーズの作者としてサンペと協働.それから『Potachologie』と『Le Potache est servi』を執筆.栄誉と数々の賞を受けて,私はくたびれた微笑みを浮かべながら,若者と子どもたちのうぬぼれ,自尊心をじっくり観察しています.

*****(49)


以上

お気をつけて.ロジェによろしく.」


やたら「助手」がでてくるところくらいから,生真面目な文章が,面白おかしくなるのです.いろいろ注もつけなきゃですけど,今日もこれまでで.



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