Aymar du Chatenet, La Grande histoire du Petit Nicolas Les Archives inédites de Goscinny et Sempé, IMAV éditions, 2022, p.135.
「ゴシニのお母さんは情け容赦ない批評家」(La mère de Goscinny : critique impitoyable)
今回はもう,ストレートな節の題名だけで,一応はすぐにわかったような気になってしまう感じです.「情け容赦ない」(impitoyable)という語は,「情け,同情,憐憫」(pitié)の形容詞形なんですが,それが欠けている,つまり「血も涙もない」というほどには,残酷そうではありません.これ↓,仲良く写っています.
きっと著者も,そんな西部劇のガンマンか鬼ママのようなイメージを抱かせるつもりはなかったはずなんです.著者の義理の祖母に当たるわけですし.ま,家族内がみんな仲良しとは限りませんが.それにしても,なかなか言葉だけではうまく伝わらないですね.あるいは,フランス語から日本語に訳しても,ほんたうにpitiéのない人と描写したかったのかどうか,結局のところ,わからないわけですし.
ところで,今現在(2023年)の読者の抱くゴシニ像というのがあるらしく,それは謹厳実直,学校の先生みたいに先生みたいにまめできちんとしている,そんな感じらしいのですが,そうではなかった,と著者は書いています.
「読者の想像は裏切られるかもしれないが,当時のゴシニは理解ある小学校の先生のような人でも,包容力ある一家の父でもなかった.母親の元を離れず,教育に携わった経験もなく,パリ16区にあるラ・ミュエット街の近代的な建物で静かに横たわり,家賃を稼ぐためにあくせくと日々執筆に勤しむ三十路の独身男・・・そんな姿はとても想像できまい.」(p.135)
ここに登場する母親がアンナさん.アルゼンチンの子ども時代から,ニューヨークを経て,ヨーロッパに戻るまで,二人はいつも一緒だったそうです.著者はアンナの息子に対する愛情は,メメのニコラへのそれを想わせると書いています.何だ,ぜんぜん残酷そうではありません.
「アンナは息子が穏やかに暮らせるよう,用心深く目を光らせていた.そうなのだが,ゴシニが創作し,後には全世界に広まり,アニメ化までされたマンガについては,まず読むことがなかった.」(id.)
「用心深く」(jalousement)とか,「目を光らせていた」(veiller sur)と書いてあると,何だか,嫉妬深くて,子どもに悪い虫がつかないよう注意しているようにも読めてしまいますが,おそらくは,次のような文と対照的に書こうと,形容詞を用いたかったのかな,と思います.
「反対に,プチ・ニコラの波瀾万丈の生涯の方は一字一句たどり,タイプライターから最後の一枚が出てくると,間髪入れず意見した.」(id.)
「一字一句」(fidèlement)は正確を期して,忠実に物事をすること.描写を真に受けるなら,一語一語,単語レベルで指摘をし,場合によっては修正を促していたということかもしれません.それで,↓のような,本節の題名が出てくるのですね.
「ゴシニにとって,お母さんは遠慮呵責のない批評家であった.」(« Pour Goscinny, sa mère est le critique le plus impitoyable. »(id.))
つまり,作品に関しては,1番に読んで,ズバズバと思ったことを言う人だった,ということです.最上級(le plus impitoyable)がついたので,もっときつく,残酷無比な感じで訳しても良いのでしょうが,読んできた限りの印象ではそれは無理!だと思った次第です.
「私は何度も推敲するほうなんです.『プチ・ニコラ』の文章なんて,毎回5回は書き直しています.何がなんでもそうしなきゃ,ってほどなんです.」(ゴシニ)(id.)
コメント