top of page
検索
執筆者の写真Yasushi Noro

『「プチ・ニコラ」大全』(17)

Aymar du Chatenet, La Grande histoire du Petit Nicolas Les Archives inédites de Goscinny et Sempé, IMAV éditions, 2022, p.134.


「子ども目線のお話」(Des histoires à hauteur d'enfant)


 『プチ・ニコラ』のお話はすべて,ニコラが読者に話して聞かせる形式となっています.文学批評の言葉を使うと,物語の語り手はニコラで,それもニコラだけ.つまり,原理的にニコラが見聞きしたことでなければ,語りに現れることができないのです.もちろん,現実には生じていなくとも,ニコラが想像していれば,お話の素材にはなります.それでも,すべてはニコラというフィルターを通した物語であるのには変わりません.

 すると,この物語の設定から,さまざまな制約が生じてきます.語り手が10歳くらいの子どもですから(ちなみに,ニコラの年齢はどのお話にも出てきません),難しい単語,大人の使うような表現などは出てきません.ニコラの知識や興味関心にないような話は出てきません.そして,読者が<子どもらしい>と考えるような言い回しでなければいけません.つまり,「子ども目線」を感じさせるような文体でなければならないのです.

 ではどうすれば,読者に<子どもっぽさ>を感じてもらえるのでしょうか.例えば日本語だと,主語を変えたり(私→僕),語尾を変えてみたり(〜です!→〜なんだって!),漢字を減らしたり,代名詞を省略したり等々,まだまだ考えられる工夫はありそうです.それではフランス語では?というのが今回のお話です.

 

「ゴシニは想い出(souvenirs)というよりも,微かな記憶(réminiscences)とする方を好んでいた.」(p.134)


 ゴシニが『プチ・ニコラ』を執筆する際に,自分の子ども時代の想い出しながら書くというより,自分の過去だけでなく,周囲から聞こえてくる言葉から触発されて浮かんでくる「微かな記憶」(「無意識的記憶」と訳されたりもします)に頼るということでしょうか.


「『チョークの匂い』,子ども時代特有の香りを再構成するのに,ゴシニは子ども言葉を生み出す.それこそが『プチ・ニコラ』シリーズを成功へと導く決定的要素の一つとなるだろう.」(id.)


ゴシニは説明する.「ニコラが話を語るんだ.子ども特有の言葉を作り出すんじゃなくて,まるで子どもが語るかのように語るんだよ.」(id.)


 著者は,こうした言葉はいかにも自然で,わざと作り出したようには見えず,ユーモアと詩情が混ざっていると言います.


「『プチ・ニコラ』とは実際の経験である.とはいえ,そんな経験など実際には存在しないのは明らかだ*.」(id.)

*Goscinny et moi, José-Louis Bocquet, éd. Flammarion, 2007中にある,著者ボケ氏の文の引用.


「私はニコラに,子どもが話すように語らせました.そうはいっても,子どもたちの話す言葉に耳を傾けたとか,現実にカセットテープで子どもたちのおしゃべりを聞いたわけではありません.ごく単純に,私の周りで子どもたちが使用している表現に耳を澄ませているのです.子どものように書いたり話したりするのは,さほど難しくはないと思うんですよ**.」(id.)

**Lectures pour tous, interview par Pierre Desgraupes RTF, 1961でのゴシニの発言.


「それは作家が無意識に行う模倣である.作家とは,創作に使えるものならなんでも吸収するスポンジだ.創作に登場する装飾や出来事は借用されたものとはいえ,それらが移植された宿主の内にある真実が宿ってこそ,具体的な血肉と化すのである.ゴシニは『プチ・ニコラ』において,自分の子ども時代について見事に語っている.パパとママンの庇護の下,今とここという現在の時間がすべてを満たしている.真面目で心地よい子ども時代.ゴシニの子ども時代とはそんなものであった***.」(id.)

***上記Bocquetの著書からの引用.


 著者曰く,「道化」でもあり,「良い生徒」でもあったゴシニは,素朴さと良識をうまく同居させていると書いています.ほんとうに子どもが話しているようじゃないか!ゴシニは,読者に対してこんな印象を抱かせるのです.

 最初の問いに戻ると,著者はそんな印象を抱かせる技法として,フランス語の文では,何度も同じことを繰り返すことを挙げています.


「パパは腕時計のネジを回した.パパはそれからママンを見て,腕時計に目をやり,最後に僕を見た.(略)パパはすっごく嬉しそうだったよ.ママンもすっごく嬉しそうだったから,僕も嬉しくなったよ****.」

****「メメがくれた腕時計」のお話から.(22)


 それから,言葉あそびもそんな技法の一つと言います.例えば,ブイヨンさんの名前の由来です.どういうことかというと,ブイヨンさんこと,デュボンさんは「私の目を見なさい」(« Regardez-moi dans les yeux »)が口癖.それでデュボンさんは,ブイヨンと呼ばれるようになります.なぜなら「ブイヨン(だし汁)の中には,プツプツ,目みたいな脂が浮いてるから.」(« dans le bouillon, il y a dex yeux. »)これはフランス語の「目」という単語の複数形les yeuxには,だし汁に浮かぶ脂les yeuxの意味があるため,掛詞になっているということなんですが,さらに原文を見ると,実際には「私の目の中を見なさい」と書かれています.それで「目の中」を実際に直視すると,確かに目が浮かんでいるから,そうかだし汁(ブイヨン)なんだと,納得できるわけです.

 ある時ブイヨンさんは,ニコラたちに注意します.「私の目を見なさい.いい子にするって約束するんだぞ.」すると,ニコラが説明します.「そしたら僕らみんなの目が,ブイヨンさんの目を見たんだよ.」(« Tous nos tas d'yeux ont regardé dans les siens. »)

 ね?子どもたちが一斉にブイヨンさんの目の中に集中する景色が目に浮かんだでしょう?いつもの口癖だからだけでもなく,あだ名があるからというだけでもなく,みんなの眼差しが,ブイヨンさんに,ではなく,その目だけに注がれるのです.これこそ,子どもらしい無意識の反射ですし,まさに教室の景色というものでしょう.


↑↓本書p.134より.


「ニコラね,そりゃもう,たいへんなやつだよ.だってやつのせいで,私は散々苦労しているんだから.週末返上でね.それにさ,私は心配性だから,ニコラが思いついた悪ふざけとか危ない遊びとかを知ろうとしてね,家の廊下を右へ左へ,うろうろ歩き回らなきゃならないんだ.」(ゴシニ)

閲覧数:4回0件のコメント

Comments


bottom of page