Aymar du Chatenet, La Grande histoire du Petit Nicolas Les Archives inédites de Goscinny et Sempé, IMAV éditions, 2022, pp.110-p.113.
「ゴシニはクビになり,サンペは連帯する」(2)
前回(09)は,ゴシニがクビになり,ユデルゾ,サンペが一緒に会社を去ったというところまででした.今回は,解雇後の話です.
1956年夏,ゴシニ一派は揃いもそろって,路頭に迷うことになります.
「ジャン-ミシェル・シャルリエによれば,「僕らは2年近くも,出版社のブラックリストに載っていてね,もう仕事が一切こなくなっちゃったんだ.」」(p.110)
シャルリエはこれまで何度か登場していますが((199), 『プチ・ニコラ』hors-série(3)-1,『大全』(09)),基本的にはシナリオライター,でもゴシニ一派の中核として活躍した人の一人です.
「とにもかくにも,僕らを闇に葬ろうと頑張っていたからね.僕らはマンガ界で働けなくなったんで,ほとんど何でもこなさねばならなかった.例えばね,僕なんてパリで,アフリカの王様の行幸を企画したりもしたよ.」(id.)
アフリカの王様のパリ行幸・・・それってマンガ家の仕事?!でも,やらなきゃ食えんというわけです.実際に1957年7月に両コンゴ(コンゴ共和国とコンゴ民主共和国でしょうが,経緯はもう少し複雑なようです)とガボンの王マココがパリを訪れた際の写真が掲載されていますが(p.111),横にはシャルリエ,ユデルゾ,サンペにゴシニの姿が.一方で映えある仕事ですし,他方でなぜこのメンバーが?と誰もが首を傾げる光景です.
当時,デュピュイのブラックリストに載っていると,やはり最大手の一つですから,他所からも,少なくとも公には仕事がもらえるはずもなく,副職,つまりバイトは欠かせなかったのです.それでも,各人,完全に干されていたわけではなく,ポツポツとは仕事を続けていました.ゴシニはゴーストライターとして,『リュッキー・リュック』のシナリオを続けていました.これ,『スピルー』に掲載されていますから,つまりデュピュイの仕事です.ですから,おそらくはデュピュイも一枚岩ではなく,ゴシニたちの理解者がいたということでしょう.もちろん「匿名の作者,署名と契約書はなし」の状態です.本書の著者によれば,ゴシニはこの時期,とにかく共同での仕事を増やしまくっていたようで,逆説的に,この時期が「人生で最も多産な時期」であったとのことです.
こうして隠れて執筆していたゴシニですが,『スピルー』のライバル誌である『タンタン』(Tintin)は大歓迎でこの作家を迎えます.そして彼は,以降レジェンドとなるマンガ作家(イラストレーター)たちと,コラボ作品を作り出してゆくのです.
蛇足ながら,『タンタン』(あるいは『タンタン・ジャーナル』)は1946年に創刊された週刊のマンガ雑誌です*.出版元はベルギーのロンバール社で,1929年から刊行され大人気を博していたエルジェの『タンタンの冒険』を受け,彼の協力を得て発刊されました.つまり,創刊自体は『スピルー』より遅いのですが(『スピルー』は1938年創刊),以前から存在した『タンタン』の名を冠していますから,どっちもどっち.正統なライバルとしてしのぎを削っていたことでしょう.
*https://fr.wikipedia.org/wiki/Tintin_(périodique) (2023年3月21日参照)
他方でサンペは,様々な雑誌にイラストを提供して生活費を稼いでいたようです(『ここ,パリ』誌(Ici, Paris),『日曜フランス』誌(France dimanche),『レキップ』誌(L'Équipe),などなど.そして1957年2月には,長い付き合いとなる『パリ・マッチ』(Paris Match)での仕事を始めています.まさに,捨てる神あらば拾う神あり.
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ちょうどこの頃,彼らはジャン・エブラールと知り合うことになります.(09)の最後に登場した人物です.トロワフォンテーヌのワールド・プレス社で広報を担当していたエブラールは,パリのラ・ブルス通りのブラッスリーを一軒,遺産相続で得たばかりだったため,そこを拠点に広報会社の「エディフランス」(Édifrance)を,そして出版を担当するÉdipresseを創設することを提案します.そこでエブラール,ゴシニ,ユデルゾ,シャルリエが揃って共同出資者,サンペは協力者となり,こうしてようやく彼らは自由を得ます.もちろん,仕事も.広報誌,販促のための雑誌,叢書,グラフィック・デザイン,PR,マンガのシリーズなどなど.契約を勝ち取るためなら,何でもやったそうです.チョコレートのピュピエ(Pupier)の仕事では,子ども向けの雑誌『ピストラン』(Pistolin)を発刊します.時計のナペー(Nappay),チョコレートのクラウス(Klaus),プラスチック製品のジラック(Gilac)からの注文で雑誌『ジャノ』(Jeannot)を制作.
ユデルゾは後に,「僕らは,注文があれば,とにかく何でもやったね.電話帳にイラストをつけてって注文があったら,僕はやっただろうよ.」,と言っている.(p.110)
こうしてこの時期,ゴシニもサンペもそれぞれ忙しく働くわけですが,特にサンペは必要に迫られ仕事に没頭するうちに,ゴシニはともかく,少しずつマンガの世界から離れて行きます.
さて最後に,発足したばかりのエディフランス・エディプレスについて少し触れておきましょう.p.111にはユデルゾが描いた,1956年11月13日付け,「興奮のるつぼ」状態にある編集部の図が掲載されています.エブラールはテニスをしたりはしゃいだり,何度も登場しています.ユデルゾは制作中の雑誌の山に,文字通り埋もれているし(それでも描き続けている),サンペは目の前で取っ組み合いをしている人のズボンをハサミで切っているし.独りゴシニだけはタイプライターに向かい,右手一本で冷静に文章を打っています.さすがっと思いきや,左手ではサイコロを転がして遊んでるし.もうはちゃめちゃ.でも,マンガ界の老舗から見放されたばかりか,妨害まで受けていた若手が一丸となって,自分たちの会社を立ち上げ,自分たちの正当性を主張してゆく.収入も確保しつつ,仲間で,シナリオライターの身分の改善もマンガの認知も目指すなんて,やっぱりかっこいい.
さらにこの時期,エディフランスのメンバーはワールド・プレスに報復しようと,『補足・イラスト付き』(Le Supplément illustré)なる雑誌を1号だけ発行します.1号だけというと少し語弊があって,刊行された雑誌に付けられたのは「0号」.つまり存在しない号でした.寄稿したのは,フランカン,ペヨ,ウィル,モリス,ジジェ,ユデルゾ,シャルリエ・・・と後のマンガ界を牽引する錚々たるメンバーでした.そこにポツンと一つ,あの少年のマンガが掲載されました.これ↓です.(p.113)
同じお話が,なんと古巣の『ムスチーク』誌1956年5月20日号に再掲されたそうです.それがこれ↓.
Sempé-Goscinny(Agostini), Le Petit Nicolas La Bande dessinée originale, IMAV éditions, 2017, p.32.
これは掲載されたマンガ版『プチ・ニコラ』シリーズ最後の作品となります.色の他は,ゴシニの呼称に従うと「0コマ目」が完全に入れ替えられています.もうすでに『ムスチーク』編集部に提出していたので掲載されてしまったのか,『補足・イラスト付き』誌を編集部の誰かが目にして再掲依頼をしたのか,真相はわかりません.もしかしたら,ゴシニ事件の発火点は,まさに著作権を巡る対立だったのですから,著作権を持つのがあくまで「作者」(この場合にはゴシニとサンペ)であることを主張した挑発行為だったのかも,なんて妄想も可能かもしれません.大手もこうした行為にめくじらを立てない,ほんの少しは大らかな時代だったようです.
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