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執筆者の写真Yasushi Noro

『「プチ・ニコラ」大全』(09)

更新日:2023年3月21日

Aymar du Chatenet, La Grande histoire du Petit Nicolas Les Archives inédites de Goscinny et Sempé, IMAV éditions, 2022, pp.108-p.109.


「ゴシニはクビになり,サンペは連帯する」(Goscinny viré, Sempé solidaire)

 さていよいよ,(07)で予告した,ゴシニが会社をクビになった話です.サンペがことあるごとに,マンガは嫌だ嫌だと発言しているので,個人的にはマンガ版の連載が1年しか続かなかったのは,サンペの意向だと思い込んでいたのですが,実はゴシニが辞めたからだったんですね.そこのところを,もう少し詳しくまとめてみましょう.


 まず固有名詞の説明が必要です.

 マンガ版『プチ・ニコラ』はベルギーの週刊誌『ムスチーク』(Le Moustique)に掲載されていました.この週刊誌を発行していたのが,ジョルジュ・トロワフォンテーヌ(1919-2007)という人物が創設した「ワールド・プレス」社(World Press)という会社です.

 トロワフォンテーヌについては,Wikipédiaに詳しい紹介があります*(2023年3月20日現在).


 17歳でジャーナリストになろうと決心したトロワフォンテーヌは飛行機が好きで,自分でも免許を取得するために,お金が必要でした.そこでデュピュイ社の雑誌にアメリカの飛行士などについて執筆していたのですが,自分の書く記事に添えるため,イラストレーターを雇うことになります.すると,編集部がイラストレーターの分を含めて支払いをしてくれるようになったそうです.そこで,イラストレーターを集めて会社を作ってしまおうと思いつき,幾つかの試みの後に,ワールド・プレスを創設しました.

 閑話休題.ところでデュピュイ社というのは**,印刷工であったジャン・デュピュイが1898年に,ベルギーのシャルルロワで作った会社です.デュピュイは編集者に転じて,1922年にイラスト付きの小説雑誌,1924年にはユーモアを売りにした週刊誌「ムスチーク」を創刊します.もちろん,マンガ版『プチ・ニコラ』を掲載していた,あの「ムスチーク」の母体となる雑誌です(同日に参照).


 マンガの歴史上,デュピュイ社と雑誌『スピルー』(Spirou)***は避けて通れない名前です(同日参照).デュピュイは若者向けの雑誌を創刊し,二人の息子に経営を任せます.同年(1938年)には,マンガ専門の週刊誌『スピルー』を創刊しました.後に,『ガストン・ラガフ』や『リュッキー・リュック』など,数々の名作を生み出し,多くのマンガ家を輩出し,そして何より未だ現存する雑誌です.もう,レジェンドとしか言いようのない.


 トロワフォンテーヌに戻って,彼は1938年からデュピュイ社のために働き,『ムスチーク』を含む様々な雑誌に,上記のような記事の他,マンガなども提供し,また人の派遣なども行なっていたそうです.コラムニストにイラストレーターに派遣業,いわばデュピュイの下請け.多才というのかどうか,ともかく忙しい人です.そして第二次大戦後に前述のワールド・プレスを立ち上げ,「映画のように」マンガの分業体制を確立します.すなわち,台本作家がいて,イラストレーターがいて,イラストに色をつける人がいて・・・といった具合です.

 さてさて,だんだんと核心に近づいてきますが,1949年にトロワフォンテーヌは,ニューヨークでゴシニと知り合いになります.その時は,お決まりの「ベルギーに来ることがあれば・・・」と別れたそうですが,それでも,その後ゴシニはニューヨークにいながら,トロワフォンテーヌの仕事をすでに受けていたようです.2年後の1951年,ワールド・プレスの支部的な事務所をパリに構えます.この頃にはアルベール・ユデルゾとも仕事をし始めていたといいます.言わずと知れた『アステリクス』のマンガ家です.ゴシニにも,編集やシナリオの執筆などの仕事が任されるようになっていました.

 そのうち『ムスチーク』誌のレイアウトを任されていたトロワフォンテーヌは,デュピュイと交渉してベルギー支社を作らせ,その一角をワールド・プレス社が占めるようになります.

 1954年,ルネ・エヌモン(René Henoumont)を新編集長に迎えた『ムスチーク』誌は,ワールド・プレス社主導で内容を一新します.もちろん,ゴシニも重要な再出発のメンバーの一人です.1953年,サンペがワールド・プレス社で働き始め,1955年の春に,この二人の作家が出会うことになるのです.ふぅ,ようやくゴシニに辿り着きました.


 さてさてさて,ゴシニは,こうして新しく出発した『ムスチーク』誌の中心人物の一人であったわけですが,1956年5月,いわゆる「ゴシニ事件」(affaire Goscinny)が生じます(ここからは『大全』に従います).


「5年間協力していたゴシニを「クビにした」のは,恐らくは,デュピュイの関連企業における過去最悪の事件である.」(p.109)


 ゴシニはクビになり,連帯を示すためにユデルゾも追随し辞めてしまいます.そしてサンペも.デュピュイ社は,今後フランスのマンガ史上最高傑作となる『アステリクス』の作家二人を失くし,同時に,人気のあったマンガ版『プチ・ニコラ』が頓挫してしまうのです.上の本作著者の記述は,あながち誇張とも言えないでしょう.

 それでクビの原因ですが,さほど複雑なことはありません.2つにまとめると,その一)当時はジャンルとしてもマンガの地位が確立されていなかった,その二)シナリオ作家はイラストレーターよりさらに地位が低く,著作権も全て雑誌に帰属していた.ゴシニらは,連帯して,この状況を打開しようとしたのです.


〔シナリオライターの名が出ることなどあり得なかったこと〕これに加えて,アメリカで一般化していた習慣で,原則,事務所か編集者が著作権者とされていた.ジョルジュ・トロワフォンテーヌもワールド・プレス社でこの原則を採用していた.この原則によると,作家は未来永劫,いかなる使用に関する権利も奪われてしまう.シナリオライターで,当時会社の法関係も担当していたジャン-ミシェル・シャルリエの説明によると,『当時,作家を保護する,いかなる権利も存在していなかった.編集者が神のごとく権利を行使していた』.ゴシニ,シャルリエはユデルゾの支援の下,矢面に立とうと覚悟した.この3人組は,「シナリオライターとイラストレーターからなる,自律した組合」を結成し,マンガ界の華を結集しようとしたのだ.」(p.109)


 1956年1月10日,ブリュッセルのカフェで集まった彼らは,連判状に署名をし,作家の権利と労働条件の改善を掲げて,編集部への提案を20ほど認め,18時に解散します.そして翌朝の9時・・・退職が宣告されてしまいます.署名者のうち2名が,その間に編集者のところを回って警戒を促していたんだそうです.これはやっぱり裏切りってことなんでしょうか.それとも,説得のため???

 こうして「組合員」ゴシニがまず贖罪の山羊となります.つまり,犠牲者とか人身御供ですな.トロワフォンテーヌはゴシニに感謝したそうです.おかげ様で,シャルリエ,ユデルゾ,サンペも一緒に退社することになりました,だそうです(皮肉を読み取ってくださいよ).


サンペによると,「僕はすっごくついてたよ.ルネ・ゴシニがこの会社をクビになったろ?それで僕にもさ,義務と友情の声が囁いてね.一緒に辞めたんだ.そのおかげでマンガをやめることができたよ.」(p.109)


 状況は悲壮そのものなのですが,あっけらかんとしたサンペの楽観に救われますな.


 ↓は当時(1956年12月),ゴシニとユデルゾが掲載していた『リュックJr』というマンガからの抜粋です(id.).さりげなく,当時連帯していた人たちが描き込まれています.


左から,サンペ,ユデルゾ,エブラール,ル・モアン,(筆で書き物をしている)ゴシニ(p.109)


最後に.

ジャン・エブラール(Jean Hébrard) :ワールド・プレスで広報の編集長を担当.後にÉdiPresse/ÉdiFranceとなる会社を創設する.

ジャン-ルネ・ルモアン(Jean-René Le Moing, 1928-):マンガ家.チューインガムのマラバール(Malabar)のデザインでも知られる.

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