日本フランス語フランス文学会の学会広報誌『Cahier』第31号に菅谷憲興氏(立教大学)による『GRIHL II』の書評が掲載されました(pp.29-31).
本書の全体を紹介するだけではなく,本書の次の段階として,今現在進行させている「価値」の問題にも言及されています.短く簡易な書評とはいえ,著者の立ち位置と着眼点が明瞭で,われわれの今後の展開にも参考になると思われます.
取り急ぎ,2点だけ,私が感心し,それゆえに反省材料となった箇所を紹介しておきます.
著者は「文学社会学的なアプローチ」では価値が相対的に捉えられることが多いし,本書のスタンスも例外ではないが,文学研究ではむしろ,価値を「積極的に突きつける」必要があるのではないか,と一歩踏み込んで提案しています.
今後の課題として,私としては,誰が誰に「積極的に突きつける」かを考察しても良いかと思います.書評では明示されていませんが,誰がの位置に作者が入るのか,それとも文学作品を研究する研究者,あるいは大学人が入るのか,また,突きつけられる「誰に」の対象は,これまた研究者仲間なのか,それとも見も知らぬ一般大衆なのか.最近,デヴィッド・グレーバーの『価値論』を読みながら,(作者あるいは読者)個人の欲望を挿入しつつ,価値のあり方,あるいは価値の発生を考えてはどうかと考えています.いずれにせよ,書評の著者が「突きつける」という価値そのものは,自明の,ほら,そこにあるでしょう,というものとして捉えないというのが,少なくとも私の立場です.その意味で相対論,懐疑論に陥る危険性は常にありますが,スゴいものはスゴいという同語反復では反対方向に振れて,今度は保守主義と化す危険性も拭えません.価値のあるなしは問題とせず(これは審美性は認めざるを得ないという認識です),その価値の構築について考察していると,ほんの少し,この世界が息苦しくなくなるかも,というのが私のかすかな希望なのです.
2点目は,著者による締め括りの言葉です.咀嚼し,少し敷衍して書くなら,文学において,あらかじめ価値が前提とされているのなら,それを相対化するのはやぶさかではない.しかし,一旦相対化し内在的な価値を否定して,他のテクストと並置した上で,コンテクスト,つまり歴史化された生産場面を検討すると,逆にある種のテクストの価値が浮き上がってくる.これが「テクストを読むという無時間的な体験」のもたらす文学の価値であり,こうしたパラドクスが「必然的に」孕まれているから,文学は面白い.以上のようで如何でしょうか.
私としては,これがまさに文学の「審美性」ではないかと思います.美術作品に惹かれ,映像に感動し,それを説明しようと言語化する.しかし幾ら費やしても言語では,感じたはずの「審美性」に永遠に辿り着けない.しかもこの場合の言語とは,語る人の言語であり,社会的な制約は免れない.審美性を無批判に肯定してしまうのは,極楽トンボか,あまりにナイーブな態度でしょう.その感性に具体性を求める行為の果てに価値が現れるのではないでしょうか.それにしてもその価値は読者の抱く価値で,それはここでも歴史的に限定された価値に他なりません.その意味で,無時間的に思える体験も,結局のところ,やはり時間の制約を受けた体験と考えられます.本論は書評の批判ではありません.そうではなく,まさに,テクストの文脈化・歴史化と合わせて,それを受け入れる体験・経験と価値を合わせて考察するところに,今現在価値を取り上げる意味があるのではないかと思うのです.(le 24 mars 2023, y.n.)
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